特設:オルフェーオの物語

 

はじめに

 

カウンターテナーのフィリップ・ジャルスキーが生み出したミニチュア・オペラ《オルフェーオの物語》が2023年3月1日に東京オペラシティ コンサートホールで初演され、大成功を収めました。これを記念し、ジャルスキーと《オルフェーオの物語》に特化した特設ページをここに設けます。前回2014年の来日公演「伝説のライヴァル」、コロナ禍で中止された2020年公演の作品解説も書式を変更して下に掲載しました。

 

《オルフェーオの物語》はモンテヴェルディ、ロッシ、サルトーリオの歌劇の楽曲を中心にジャルスキーが再構成したオペラですが、オルフェーオを題材とする楽曲による演奏会と誤解され、来場して初めてオペラと知った方も多いようです。なぜなら作品のコンセプトは、筆者が執筆したプログラムの作品解説で明らかにしたからです。映写された日本語字幕も筆者が作成し、三つの歌劇の人物と歌詞を一つの物語と人物になるよう工夫しました。

 

5月31日、NHK「クラシック俱楽部」BS4K、午前5時00分~ 午前5時55分にダイジェスト版が放送されますので、ここに転載する作品解説を読んでご覧いただければ幸いです(約80分の作品が55分弱に編集され、タイトルや人名がNHK表記になり、字幕も筆者のものではありませんが……)

まずはクラシック倶楽部の予告動画をご覧ください→ https://www.nhk.jp/p/c-club/ts/6N5K88R4Q5/movie/    

(2023年5月18日。水谷彰良)

7月30日(日)深夜、BSプレミアムシアターとBS4Kがジャルスキーの来日公演《オルフェーオの物語》を全編放送します(午前3時23分30秒~午前4時52分00秒)。

うっかり告知し忘れましたが、まだ間に合うので録画を仕掛けてください!

プレミアムシアターの告知はこちら→ 〈BSP〉7月30日の放送内容 - プレミアムシアター - NHK

 2023年7月30日。水谷彰良)

 

 

概説:オルフェーオの物語とその歌劇の変容

ギリシア神話のオルペウスとエウリディケーの物語は現存するオペラの最古の題材であると共に、その普遍的性格から現在に至るまで繰り返し劇化され、古典的名作というべきモンテヴェルディ《オルフェーオ》とグルックの《オルフェーオとエウリディーチェ》も新たな編曲や演出によりその生命を保っています。

ジャルスキー《オルフェーオの物語》の作品解説に先立ち、筆者が2023年1月18日に日本ロッシーニ協会の例会で行った講演「オルフェーオの物語とその歌劇の変容」のテキストをお読みいただければ幸いです(PDF版)。

 

水谷彰良「オルフェーオの物語とその歌劇の変容」

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フィリップ・ジャルスキー《オルフェーオの物語》チラシとプログラムの曲目表

 

 

 

 

  

  

 

 

 

   筆者による公演レポートは『モーストリー・

   クラシック』2023年5月号 70-71頁に掲載さ

   れています。

 

《オルフェーオの物語》作品解説(水谷彰良。書式変更のPDF版。次に文字だけ貼り付けます) 

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珠玉のミニ・オペラ 「オルフェーオの物語」 水谷彰良

 

 

 本日この会場にいる誰もが、ギリシア神話のオルペウスとエウリディケーの物語をご存じだろう。けれども死んだ妻エウリディケーを取り戻すべく冥界に下りたオルペウスが「後ろを振り返らない」との条件でこれを許されながら地上を目前にして振り返り、エウリディケーを永遠に失う物語の核心以外の部分には釈然としない人も多いのではないか。神話や伝説には確固たるテキストや原典が存在せず、主人公の素性や性格、事件の背景と結末も話者ごとに異なり、一貫性がないからだ。それゆえ歌と竪琴の名手オルペウスの出自も定かでなく、河神オイアグロスの息子、アポローンの息子(もしくは弟子)など諸説ある。冥府下りの結末もさまざまで、最も有名なオウィディウス(紀元前43-紀元後17または18)の『変身物語(メタモルポーセース)』ではエウリディケーの救出に失敗したオルペウスが女との交渉を絶って少年愛にはしり、これに怒ったバッカエ(マエナデス/バッコス神の巫女たち)の手で八つ裂きにされ、頭部と竪琴がレスボス島に流れ着きながらもその霊が冥界でエウリディケーと再会して幸せな結末を迎えるのに対し、ウェルギリウス(紀元前70-19)の『農耕詩(ゲオールギカ)』では切り落とされたオルペウスの首が「エウリディケー!」と叫びながら川を流れていくところで話が終わる。

 この題材による最古の劇となるアンジェロ・ポリツィアーノ(1454-1494)の牧歌劇《オルフェーオの寓話》(1480年マントヴァ初演と推測)は、オルフェーオを殺したバッコスの巫女たちの喜びの酒宴で閉じられる。この牧歌劇に基づく最初のオペラ、ヤーコポ・ペーリ作曲《エウリディーチェ》(1600年フィレンツェ初演)はフランス王アンリ4世とマリーア・デ・メディチの結婚祝賀用に作られたため、オルフェーオが何事もなくエウリディーチェを地上に連れ帰り、牧人たちに祝福されるハッピーエンドが採用されている。これに対し、7年後にマントヴァで初演されたモンテヴェルディの《オルフェーオ》は印刷された台本がポリツィアーノを踏襲して巫女たちの酒宴で終わるものの、1609年に出版された初版楽譜では失意のオルフェーオを父アポッロ(アポローン)が天に昇らせる神格化、すなわちデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けで現れる神)による解決が導入された。

 本日上演される「オルフェーオの物語La storia di Orfeo」(以下「物語」と記す)は、カウンターテナーの鬼才フィリップ・ジャルスキーが17世紀に作られたモンテヴェルディ、ロッシ、サルトーリオの歌劇《オルフェーオ》の楽曲を用いて再構成した新たなミニチュア・オペラである。この企画は2017年発売のCD「オルフェーオの物語」(Erato)に結実し、エウリディーチェを歌うエメーケ・バラートと共にヨーロッパ各地で行った演奏会でも高い評価を得た。その特色は、オルフェーオを中心に据えたモンテヴェルディ作品に欠けているエウリディーチェの感情の機微や存在感、恋人たちの官能的な愛の交歓をロッシとサルトーリオの作品で補ったことにある。初期バロックの歌いながら語るレチタール・カンタンドの朗誦からレチタティーヴォとアリオーソの歌で感情を表出するカンタール・レチタンドへの移行、独立したアリアの先駆をなす歌の様式も、本作を通じて体感しうる。

 上演機会がきわめて乏しいロッシとサルトーリオ歌劇のオルフェーオ役がソプラノ・カストラートのために作曲されたことも、ジャルスキーが「物語」を生み出すきっかけになったようだ。とはいえ、テノールのために書かれたモンテヴェルディのオルフェーオを歌うことにカウンターテナーとしての躊躇や忸怩たる思いのあるジャルスキーは、CDブックレットのメッセージの中でこれに関するエクスキューズを述べている。それでもサルトーリオ作曲の愛の二重唱で始まりロッシの哀歌で終わる本日の「物語」をお聴きいただければ、懸念は払拭されるだろう。ここでのオルフェーオ/ジャルスキーは野獣と山川草木が聴き惚れ、動物たちも彼の後に付き従った妙なる歌声をもつオルペウスその人だからである。

 この「オルフェーオの物語」は、CDとは異なる新たに構成された演奏会用のヴァージョンである。合唱の代わりに前記3人以外の作曲家の器楽曲を周到に配して各シーンの継続性を保ちつつ、オルフェーオとエウリディーチェの愛の物語が休憩なしに約80分の音楽劇にまとめられている。45歳を迎えて円熟の極みにあるジャルスキー、2017年メシアン《アッシジの聖フランチェスコ》演奏会形式日本初演で天使を歌ったバラート、傑出した古楽器奏者によるアンサンブル・アルタセルセが織りなすこのミニ・オペラは、オルペウス神話のエッセンスを凝縮した典雅なストーリーのみならず、その素晴らしい演奏によっても忘れえぬ一夜になるに違いない。

 

作品解説

 

「オルフェーオの物語」を構成する三つの歌劇

 はじめに「オルフェーオの物語」の基となる、モンテヴェルディ、ロッシ、サルトーリオの歌劇《オルフェーオL’Orfeo》とその特色を簡潔に紹介しておこう。

 マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世の宮廷楽長を務めるクラウディオ・モンテヴェルディ(Claudio Monteverdi, 1567-1643)が作曲した最初の歌劇《オルフェーオ》は、1607年2月24日にマントヴァのドゥカーレ宮殿で初演された。台本作者は高名な作曲家の息子アレッサンドロ・ストリッジョ(Alessandro Striggio, 1573頃-1630)。プロローグと5幕からなり、タイトルロールのオルフェーオがすべての幕に登場する作劇が異例で、第1幕と第4幕に関与するエウリディーチェの歌唱部分も極度に少なく、他の人物は一つの幕だけに登場する。衣装や装置が使われた痕跡がないことから、舞台演劇ではなく、宮廷人と熱狂者たちのアカデミー(アッカデーミア・デリ・インヴァーギティ)のメンバーが音楽にのせた詩に耳を傾ける「朗誦される詩劇」として創作されたものと理解しうる。そのことがモンテヴェルディに人間の情念と感情を音楽で雄弁に表現する方法を探求させ、多声マドリガーレの古様式(第一の作法)を用いる重唱、言葉と音楽を高次に統合する新様式(第二の作法)の朗誦、舞踏歌のような合唱と有節形式の歌曲を混合して不朽の名作となったのである。その物語は女を侮辱する言葉を吐いてオルフェーオが逃げ去り、激情にかられたバッコスの巫女たちの合唱で終わるが、1609年ヴェネツィアで出版された初版楽譜では前記のオルフェーオが天に昇る神格化を採り入れ、「地上で苦しみを味わった者は天上で恵みを得る」と歌うニンファと牧人たちの合唱と熱狂的なモレスカ舞曲で閉じられる。

 1647年3月2日にパリのパレ=ロワイヤル劇場で初演された《オルフェーオ》は、フランスに帰化して1642年に宰相となったジュール・マザランが宮廷演劇にイタリア・オペラを導入すべくローマのバルベリーニ枢機卿に仕える作曲家ルイージ・ロッシ(Luigi Rossi, 1597頃-1653)に制作させた3幕の悲喜劇(トラジコンメーディア)である。台本作家フランチェスコ・ブーティ(Francesco Buti, 1604-1682)は20人以上の人物を舞台に登場させ、エウリディーチェに横恋慕するアリステーオとその後ろ盾となるヴィーナス(ヴェーネレ)を敵対者とし、毒ヘビに噛まれて死んだエウリディーチェが亡霊となってアリステーオを自殺に追い込むなど、ヒロインの存在感が際立っている。オルフェーオがエウリディーチェの救出に失敗する経緯は渡し守カロンテの語りで説明され、絶望したオルフェーオがみずから死を望むと「地上ではなく天のみが褒美を与えられる」と天界の合唱が答え、ジョーヴェによる祝福を経て、彼らを星座にして永遠に祝われるようにするとメルクーリオが宣言するエピローグで劇を終える。この作品はジャコモ・トレッリが設営した機械仕掛けの舞台によっても大成功を収め、著名なカストラートのアット・メラーニ(Atto Melani,1626-1714)がオルフェーオ役を務めた。ロッシが歌による感情表現に優れた作曲家だったことは、「物語」に採用されたアリアと二重唱が証明するだろう。

 アントーニオ・サルトーリオ(Antonio Sartorio, 1630頃-1680)はヴェネツィア生まれの作曲家だが、1661年初演の歌劇《ピッロの実らぬ恋》までの経歴は詳らかでなく、1666年から75年までブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ヨハン・フリードリヒの宮廷楽長を務めるかたわら13のオペラをヴェネツィアの商業劇場で初演した。1672年12月14日(台本の献辞による推測)にサン・サルヴァトーレ劇場で初演された《オルフェーオ》は、台本作家アウレーリオ・アウレーリ(Aurelio Aureli, ?-? )が周知の題材を大胆に改作して脇筋を増やし、テノールが女装して演じる好色な乳母、神話の人物エルコレ(ヘラクレス)とアキッレ(アキレウス)など多彩な人物が登場する。3幕からなる物語は、オルフェーオの弟アリステーオが婚約者アウトノエをないがしろにして兄の妻エウリディーチェに熱を上げ、嫉妬深いオルフェーオが2人の関係を疑って牧人オリッロにエウリディーチェを剣で殺すよう命じるという通俗的な筋書きになっている。そして夢に現れたエウリディーチェの霊に促されてオルフェーオが冥府に下りて妻の救出に失敗すると、話の矛先が変わり、よりを戻したアリステーオとアウトノエが結婚してめでたしめでたしとなる。登場人物全員が俗物的で物語が錯綜しながらもサルトーリオの音楽は一級品で、流麗な旋律のアリアと二重唱が新たな時代の到来を実感させずにはいない。

 このように、モンテヴェルディとサルトーリオを隔てる65年間は、誕生して間もないオペラの実験的な作劇と音楽から後期バロックの様式へと移行する過渡期であるとともに、オルペウス神話の解釈と登場人物の役柄が大きな変貌を遂げたことが分かる。では、「物語」は三つの歌劇からどんな歌と音楽を抽出して新たなドラマとしたのか。次に、劇に挿入される他作曲家の器楽曲も含めて明らかにしてみよう。

 

あらすじと音楽

 

 先触れとして3回演奏されるトッカータはモンテヴェルディ《オルフェーオ》の冒頭曲。サルトーリオ《オルフェーオ》のゆったりとしたテンポの序奏と快活なアレグロからなるシンフォニアを続け、「物語」の幕が開く。

結婚の契りを結んだエウリディーチェとオルフェーオの喜びが、サルトーリオ作品の第1幕冒頭リトルネッロと二重唱“愛しく心地よい鎖”の爽やかな旋律と三度平行のハーモニー、甘美な対話で歌われる。

 オルフェーオはエウリディーチェと初めて逢って愛が芽生えた日を思い起こし、“天界のバラ” を歌って幸せをかみしめる。これはモンテヴェルディ作品の第1幕、低音楽器のオルゲルプンクトにのせた旋律的な朗誦で、情感豊かに歌われ、エウリディーチェもこれに応えて自分の喜びを慎ましく語る。

 次曲、エウリディーチェの “愛しい人、あなたと共にする苦痛は” はロッシ《オルフェーオ》第2幕のアリア。半音階で下降するシャコンヌ・バスにのせて、「あなたと共にする苦痛は他の人との喜びよりも甘美です」と優美に歌われる。三度平行で始まる短い二重唱 “なんと甘美なのでしょう” がこれに続き、2人は愛の喜びにひたる。

 ここでロッシ作品の序曲に該当する緩やかなテンポのシンフォニアが挿入される。続くもう一つのシンフォニアはフランチェスコ・カヴァッリ(Francesco Cavalli, 1602-1676)が1653年にミラノで初演した歌劇《オリオーネ》の序曲で、荘重なアダージョの音楽とアレグロの舞曲からなり、多彩な楽器と変化に富む音楽が華やかな雰囲気を醸し出す。

 オルフェーオはモンテヴェルディ作品第2幕の “覚えているか、ああ暗い森よ” により、苦痛が歓喜に変わったと喜びを新たにする。これは活気あふれるリトルネッロを伴う、四節からなる舞踏歌である。

 オルフェーオとエウリディーチェはロッシ作品第1幕終盤の短い対話と二重唱 “ぼくを愛してる?” を歌い、恥ずかしいほどあけすけに互いの愛を確かめ合う。固執低音にのせてエウリディーチェが華やかに歌い踊る “愛神の命令に” はロッシ作品第2幕のアリアでモンテヴェルディ作品にはない世俗的で直接的な愛情表現が際立つ。

 だが、喜びの頂点にあるエウリディーチェを不幸が襲う……毒蛇に足を噛まれてしまうのだ。モンテヴェルディはその模様を女の使者に語らせるが、ジャルスキーはサルトーリオ作品の第2幕でエウリディーチェが叫び声をあげ、毒が体にまわるのを感じて歌う “ああ、神々よ、私は死にます” を採用し、オルフェーオの名を呼んで息を引き取るエウリディーチェを見たアリステーオの嘆きをオルフェーオに与え、彼を悲惨な出来事の目撃者とする(これはどの歌劇にもない設定である)

 続いてオルフェーオが歌う “涙よ、どこにいるのか?” は、ロッシ作品の第3幕で妻の死に悄然として「涙よ、ぼくの眼に溢れて光を消してくれ」と訴える悲嘆のアリアである。

 ここで1615年から20年までモンテヴェルディが楽長を務めたヴェネツィアのサン・マルコ寺院オーケストラのヴァイオリニストで作曲家ビアージョ・マリーニ(Biagio Marini, 1594-1663)四声のパッサカリアが演奏される。これは1655年ヴェネツィア刊の《さまざまな楽器のための多様なソナタ集》op.22の1曲で、4小節単位で反復する低弦の上で溜息や嘆きを表す音楽が不協和音を交えて綴られ、このシーンにぴったりの選曲となっている。

 ここから先は、冥府下りを含めた出来事が描かれる。モンテヴェルディ作品ではエウリディーチェの死を知ったオルフェーオがスペランツァ(希望の寓意)に導かれて黄泉の国に通じる岸辺に来るが、ジャルスキーが取り上げるのはサルトーリオ作品第3幕の興味深いエピソードである。あらためてエウリディーチェの死に思いを馳せたオルフェーオが “エウリディーチェが死んだ” と嘆き、打ちひしがれて眠りに落ちるのだ。そこにエウリディーチェの亡霊が現れ、 “オルフェーオ、眠っているの?” と歌いかける。これはとてつもなく優美な旋律で始まり、黄泉の国にいる私のことを忘れたの、と話しかける。そして半音階で下降するシャコンヌ・バスの上で静かに救出を呼びかけ、目を覚ましたオルフェーオが彼女の亡霊を追って冥府下りする決意を歌う。このシーンでのメリスマを交えた甘美な歌の調べは、レチタール・カンタンドからカンタール・レチタンドへの変化を如実に示すものと言って良いだろう。

 次いでモンテヴェルディ作品第3幕の冥界のシンフォニアを序奏に名歌 “強力な霊” が歌われる。これは渡し守カロンテから「生者は川を渡れぬ」と行く手を阻まれたオルフェーオによる有節変奏形式の嘆願の歌で、初版楽譜の歌唱パートに並行して掲げられた技巧の粋を凝らしたヴァージョンは、これを初演したテノール、フランチェスコ・ラージ(Francesco Rasi, 1574-1621)の精緻な装飾歌唱の貴重なドキュメントとなっている。そこでは異なる音楽のリトルネッロを挟んで四つの節が歌われ、歌詞の内容に沿って各節に2本のヴァイオリン、2本のコルネット、ハープ、3本の弦楽器が介在し、追加の詩行に続いて冥界のシンフォニアが後奏として演奏される。

 この圧倒的な音楽を受けて挿入されるのが、前記マリーニが作曲したカンツォーネ 第1番である。1629年ヴェネツィアで出版された作品集op.8の中の楽曲で、素朴な主題を楽器が受け継ぐ疑似対位法的な形式をもち、和声的な部分を挟んで華やかな終結部となる。

 かくして「物語」は佳境に入る。サルトーリオ作品の第3幕、冥府から地上を目指して歩むオルフェーオとエウリディーチェの対話 “神々よ、私はなにを見ているの” でドラマを再開するのだ。オルフェーオが目の前にいることに驚くエウリディーチェの胸は喜びでいっぱいになり、「君を見てはいけないのだ」と話すオルフェーオに向かって「振り返らないでね、愛しい人」と繰り返し歌いかける。だがその言葉に苦痛がいや増したオルフェーオは、耐え切れずに振り返ってしまう!

 たった一度の過ちでエウリディーチェを失ったオルフェーオは彼女の後を追おうとするが、嘆きの川コキュトスの入口が閉じている(「閉まっている、ああ、嘆きの川の」)。冥界の亡霊たちに「エウリディーチェを返してください」と訴えても、その歌声は空しく響くばかりである。

 最愛の人を永遠に失ったオルフェーオの絶望は、ロッシ作品のオルフェーオ最後のアリア “冥界を離れて” によって表現される。しめやかな音楽の調べにのせて抒情的に歌われるこの曲は、自分が死ねば冥界でエウリディーチェに再会できるとの思いから「死なせてくれ!」の言葉を4回、音程を三度ずつ低めて最低音Aまで下り、沈黙と無音の時が訪れる……。

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  「物語」はこのアリアの深い余韻で閉じられる。CDがロッシ作品の華やかな天界の合唱を終曲とするのは17世紀歌劇の標準的結末に沿ったためで、グルックの《オルフェーオとエウリディーチェ》(1762年ウィーン初演)とそのフランス語改作版《オルフェとウリディス》(1774年パリ初演)では死んだエウリディーチェを愛の神が蘇らせて結ばせるハッピーエンドが選択されている。唯一というべき例外はハイドンの《哲学者の魂、またはオルフェーオとエウリディーチェ》(1791年作曲・未完成)で、地上に戻ったオルフェーオがバッコスの巫女たちの誘惑を拒み、女たちに強いられて飲んだ愛の神酒の毒がまわって息絶えるという新たな結末が用意されている。

 オルフェーオを題材とする歌劇の歴代の台本作家と作曲家の頭を悩ませたのが、神話の残酷な結末をどのように処理するかという難問だった。本日のそれは2021年にパリのシャンゼリゼ劇場とバルセロナのカタルーニャ音楽堂で上演した「物語」と同じオルフェーオの悲嘆のアリアによる静かなフィナーレで、この問題を熟慮したジャルスキーが決定版として採用した結末にほかならない。2021年の上演では甘美な二重唱がアンコールで歌われたが、はたして今回はどうだろうか。

(みずたに あきら オペラ研究家)

 

伝説のライヴァル 2014年来日公演

伝説のライヴァル(ファリネッリ&ポルポラ VS カレスティーニ&ヘンデル)

フィリップ・ジャルスキー&ヴェニス・バロック・オーケストラ 2014年4月25日(金) 東京オペラシティ コンサートホール

 

「伝説のライヴァル」作品解説(水谷彰良。書式変更のPDF版) 

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フィリップ・ジャルスキー&ヴェニス・バロック・オーケストラ「伝説のライヴァル」のチラシ、プログラム表紙、曲目表

 

 

幻の2020年 ジャルスキー&アンサンブル・アルタセルセ

 

「フィリップ・ジャルスキー&アンサンブル・アルタセルセ」

2020年3月13日(金) 東京オペラシティ コンサートホールコロナ禍で中止

 

 

印刷されなかった2020年の作品解説(水谷彰良。書式変更のPDF版)

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