新国立劇場における《夢遊病の女》の初上演を記念し、筆者コレクションのベッリーニ資料展示を行いました。ここに特設サイトを設置し、展示資料の写真と説明文を掲載します。
2024年10月25日開設(水谷彰良)
ベッリーニ《夢遊病の女》と資料展示のチラシ、許可を得て撮影した展示ケースの写真5点
ベッリーニ作曲『夢遊病の女』『ノルマ』『清教徒』資料展示
«La sonnambula» «Norma» «I puritani» di Vincenzo Bellini (Mostra a cura di Akira Mizutani)
新国立劇場 5階 情報センター閲覧室
2024年9月11日(水)~10月20日(日) ※ただし休室日は除く
展示品と説明文:水谷彰良 (音楽・オペラ研究家・日本ロッシーニ協会会長)
情報センターによる展示案内は→ こちら
↑ ベッリーニ資料展示の展示品と説明文(A4版の表と裏)
パネル展示「ベッリーニとマリブラン 水谷彰良」
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『夢遊病の女』 展示ケース①
ベッリーニの肖像(作者不詳の油彩。ミラノ・スカラ座所蔵。絵葉書複製)
Vincenzo Bellini, Anonymous painting, Museo del Teatro alla Scala. Milano (Postcard)
『夢遊病の女』アミーナ役のジェニー・リンド
(木版画。フィラデルフィア、ルイ・A・ゴディ社、1850年)
Jenny Lind as Amina in Sonnambula, woodblock print, Louis A. Godey, Philadelphia, 1850.
※「スウェーデンのナイチンゲール」と呼ばれたジェニー・リンド(1820-87)は、1840~50年代にアミーナを演じて一世を風靡した。これは女性向け月刊誌「Godey's Magazine and Lady's Book」1850年7月号に掲載された、水車の上にかかる朽ちた梁を歩むリンドを描いた木版画。小屋の屋根のひさしではなく、水車の上の橋を歩く演技はリンドの考案とされる。
『夢遊病の女』ロドルフォのレチタティーヴォとカヴァティーナ
(ピース初版。ミラノ、G. リコルディ社、1831年)
«La sonnambula»: Recitativo e Cavatina di Rodolfo, Vi ravviso, o luoghi ameni, G. Ricordi, Milano, 1831.
※『夢遊病の女』の版権を取得したミラノのリコルディ社は、特殊な高声テノールのG.B.ルビーニのために書かれたエルヴィーノ役のカヴァティーナ(第3曲)、アリア(第9曲)、アミーナとの二重唱(第6曲)を低く移調して出版した。その結果、提携出版社(ローネル社とブージー社)を含むすべての印刷譜と上演用の楽譜が移調版で作成された。
『夢遊病の女』アミーナのレチタティーヴォとカヴァティーナ
(フランス初版楽譜。パリ、ローネル社、1831年)
Recitativo e Cavatina d’Amina, Come per me sereno, First edition in France, chez Launer, Paris, 1831.
※フランスにおける版権を購入したパリのローネル社が出版したアミーナのカヴァティーナ初版楽譜。
『夢遊病の女』英語版の初版楽譜
(ヘンリー・R. ビショップ編。ロンドン、T. ブージー社、1833年)
«La sonnambula», adapted to the English stage by Henry R. Bishop, T. Boosey, London, 1833.
※イギリスでの版権を取得したブージー社が作成した英語版『夢遊病の女』は、1833年5月1日ドルリー・レーン劇場の初演でマリア・マリブランがアミーナを演じて大成功を収めた。『埴生の宿』の作曲家ヘンリー・ローリー・ビショップ(Henry Rowley Bishop, 1786-1855)がマリブランの声に合わせて編曲し、アリア・フィナーレのカバレッタは四度低く移調されている(全曲の印刷譜完本は大英図書館と筆者所蔵のみと思われる)。
『夢遊病の女』(パリ、ローネル寡婦社、1849-50年)
«La sonnambula», Mme Ve Launer, Paris, 1849-50.
※ローネル社の後継出版社による全曲のピアノ伴奏譜。
ベッリーニの肖像 (銅版画。パリ、1860年代)
Portrait of Vincenzo Bellini, gravés à l'eau-forte, Paris, 1860s.
ジュディッタ・パスタの肖像 (鋼版画。ロンドン、スミス&エルダー社、1863年)
Portrait of Giuditta Pasta, Steel engraving, Smith, Elder & Co, London, 1863.
※スタンダールから「歌唱芸術の極致」と絶賛されたジュディッタ・パスタ (1797-1865) は、アミーナとノルマを創唱した。
マリア・マリブランの肖像 (鋼版画。ロンドン、スミス&エルダー社、1863年)
Portrait of Maria Malibran, Steel engraving, Smith, Elder & Co, London, 1863.
※マリア・マリブラン (1808-36) はショパンから「驚異中の驚異!」と称賛された天才歌手。28歳で早世した。
メルラン公爵夫人『マリブラン夫人』
(ブリュッセル、ソシエテ・ティポグラフィック・ベルジュ社、1838年)
Comtesse Merlin, Madame Malibran, 2-vols. Société Typographique Belge, Brussels, 1838.
※メルラン公爵夫人によるマリブラン伝の初版(全2巻)。第1巻にマリブランによる『夢遊病の女』アリア・フィナーレの歌い替えの楽譜が掲載されている。
『ノルマ』 展示ケース②
『ノルマ』自筆譜ファクシミリ
(全2巻。ニューヨーク&ロンドン、ガーランド社、1983年)
«Norma», A facsimile edition of Bellini's original autograph manuscript, Vol. I. Garland, New York & London, 1983.
※「清らかな女神よ」が現行のヘ長調ではなく、ト長調で記譜されている。下の初版楽譜と比較されたい。
『ノルマ』自筆譜ファクシミリ
(同前。第2幕ノルマのアリア・フィナーレ)
«Norma», A facsimile edition of Bellini's original autograph manuscript, Vol. II. Garland, New York & London, 1983.
『ノルマ』ノルマのシェーナとカヴァティーナ「清らかな女神よ」
(ピース初版。ミラノ、G. リコルディ社、1832年)
«Norma»: Scena e Cavatina di Norma, Casta diva, G. Ricordi, Milano, 1832.
『ノルマ』第2幕ノルマのレチタティーヴォとアリア・フィナーレ
(ピース初版。ミラノ、G. リコルディ社、1832年)
«Norma»: Recitativo ed Aria finale di Norma, G. Ricordi, Milano, 1832.
ノルマ役のジュリア・グリージの肖像
(鋼版画、ロンドン、デイヴィッド・ボーグ社、1845年)
Giulia Grisi as Norma, Steel engraving, David Bogue, London, 1845.
※ジュリア・グリージ(Giulia Grisi,1811-69)は20歳で『ノルマ』アダルジーザを創唱した。『清教徒』初演でエルヴィーラ役を務め、ベッリーニから「天使のように歌い、演じた」と称えられた。
『清教徒』 展示ケース③
『清教徒』リッカルドのアリア「ああ! 永遠におまえを失った」
(ピース初版。ミラノ、G. リコルディ社、1835年)
«I puritani»: Aria di Riccardo, Ah! per sempre io ti perdei, G. Ricordi, Milano, 1835.
『清教徒』(全曲のイタリア初版楽譜。ミラノ、G. リコルディ社、1836年)
«I puritani»: First edition in Italy, Dedicated to Maria Malibran, G. Ricordi, Milano, 1836.
※全曲のイタリア初版楽譜。マリア・マリブランに献呈出版され、タイトル頁にベッリーニの墓前で竪琴を弾きながら歌うマリブランのイラスト付き。ベッリーニはマリブランのために『清教徒』を改作したが、上演されずに終わった。
『清教徒』アルトゥーロ役のG. B. ルビーニの肖像
(リトグラフ、パリ、マルシャン社、1841年)
Giovanni Battista Rubini as Riccardo in «I puritani», Lithograph, Marchant, Paris, 1841.
※アルトゥーロ役を創唱したジョヴァンニ・バッティスタ・ルビーニ(Giovanni Battista Rubini, 1794-1854)は、『夢遊病の女』のエルヴィーノも初演した名テノール。超高音(ハイF)を歌ったことでも知られる。
『清教徒』(全曲の初版楽譜。パリ、パシーニ社、1836年)
«I puritani»: First edition, chez Pacini, Paris, 1836.
※『清教徒』の版権はパリのパシーニ社が取得し、全曲の初版楽譜をベッリーニの没後に出版した。
『清教徒』自筆譜ファクシミリ 全2巻
(ニューヨーク&ロンドン、ガーランド社、1983年)
«I puritani», A facsimile edition of Bellini's original autograph manuscript, 2-vols. Garland, New York & London, 1983.
『マエストロ ベッリーニとロッシーニの音楽的功績に関する省察』
(ボローニャ、ヴォルペ印刷所、1834年)
Osservazioni sul merito musicale dei maestri Bellini e Rossini, Tipografia della Volpe, Bologna, 1834.
※パレルモで出版されたベッリーニとロッシーニを比較するパンプレットを批判する小冊子。
フィリッポ・ジェラルディ『ヴィンチェンツォ・ベッリーニの伝記』
(ローマ、G. サルヴィウッチ・エ・フィリオ社、1835年)
Filippo Gerardi, Biografia di Vincenzo Bellini, Giuseppe Salviucci e figlio, Roma, 1835.
※ベッリーニの死の数週間後に出版された最初の伝記。短編でも貴重な証言が含まれる。
ルイージ・カルドーナ『ベッリーニの逸話、書簡とモットー』
(ラグーザ、ピッチット&アントーチ社、1876年)
Luigi Cardona, Aneddoti lettere e motti di Vincenzo Bellini, Piccitto e Antoci, Ragusa, 1876.
※ベッリーニのなきがらがパリから移送され、カターニアの大聖堂に再埋葬された1876年の出版。興味深い逸話が含まれる。
その他の展示ケース(夢遊病の女)
『夢遊病の女』自筆譜ファクシミリより、第1幕導入曲の冒頭頁
(原寸大の複製)
『夢遊病の女』のクリティカル・エディション
(総譜、2巻本。リコルディ社、2009年)
パネル展示
ベッリーニとマリブラン 水谷彰良
19世紀オペラの巨匠ワーグナーとヴェルディは1813年に生まれて長くキャリアを保ち、前者は69歳で《パルジファル》、後者は79歳で《ファルスタッフ》を作曲して引退の花道を飾った。これに対し、33歳10か月の若さで志半ばにして未来を断たれたのが、1801年シチリア島のカターニア生まれのヴィンチェンツォ・ベッリーニ (Vincenzo Bellini, 1801-35) である。
ナポリの音楽学校の卒業作品に24歳で作曲した歌劇《アデルソンとサルヴィーニ》で才能を認められ、ナポリの王立劇場から新作を求められたベッリーニは、ミラノ・スカラ座初演の《海賊》(1827)と《異国の女》(1829)で最初の成功を得た。1830年ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演した《カプレーティ家とモンテッキ家》が出世作となり、抒情的でロマンティックな《夢遊病の女》(1831)により更なる成功を収めた。《ノルマ》はその9か月後にスカラ座で初演した悲劇で、作曲者の名を不朽のものにした。
名声を得たベッリーニが新天地に選んだのがフランスの首都パリだった。これはオペラの筆を折ったロッシーニがイタリア劇場の顧問となって招聘した結果で、満を持して作曲した《清教徒》は1835年1月24日の初演で完全勝利を収め、フランス王妃の手でレジョン・ドヌール騎士章を授与される栄に浴した (2月5日)。かくして時代の頂点に立った若者は、自分の余命が7カ月とは想像もしえなかったに違いない。
オペラ・コミック座から新作を求められたベッリーニにオペラ座との契約を優先するよう勧めたロッシーニは9月1日、オペラ座の新監督に彼を引き合わせた。けれども友人ソロモン・レヴィが借りたパリ近郊ピュトーの別荘でレヴィとその妻と思われた元バレリーナのオリヴィエ嬢と暮らすベッリーニは、新作の協議を始めてすぐに病に倒れた。見舞いに訪れた友人たちはレヴィに追い返され、会えたのは9月9日に往診したイタリア人医師と両シチリア王国のフランス大使だけだったという。そして同月21日に危篤の報せがもたらされ、2日後の23日午後5時頃、死亡が確認されたのである。
レヴィ夫人による毒殺の噂がパリを駆け巡ったため、9月25日にダルマス博士の手で検死解剖がなされ、肝臓の大きな膿瘍と結腸粘膜に広がる炎症が確認された結果、毒殺疑惑はぱたりと止んだ (現代医学は1828年頃に罹患したアメーバ性大腸炎が急速に悪化したと推測)。葬儀は10月2日廃兵院にて、フランス王家とパリの名士、すべての著名な作曲家、オーケストラと合唱団の参列で執り行われた。なきがらはペール・ラシェーズ墓地に埋葬されたが、1876年に移送され、故郷カターニアの大聖堂に眠っている。
歌手との関係では、ベッリーニと台本作家をコモの別荘に招いて《夢遊病の女》と《ノルマ》を作曲させたジュディッタ・パスタが有名だが、ベッリーニが最後に高く評価したのはマリア・マリブラン (1808-36) だった。卓越したテノール歌手の父マヌエル・ガルシアから厳格な声楽教育を施された彼女は1825年、17歳でロンドンのキングズ劇場にパスタ夫人の代役として《セビリアの理髪師》ロジーナでデビューした。翌年一家の巡業先ニューヨークでフランス人銀行家マリブランと結婚すると夫を残してヨーロッパに戻り、1828年から32年までパリとロンドンの歌劇場に出演して一世を風靡した。20歳のマリブランの演奏に接した作曲家カラーファは「才能の奇蹟」「真の音楽の天才」と称え、1831年に彼女の舞台を見たショパンは「奇跡的な声で魅了する。容姿でも幻惑する! 驚異中の驚異だ!」と友人への手紙に記した。
ベッリーニは1833年5月ロンドンでマリブランの演じる英語版《夢遊病の女》を観てその才能に驚き、彼女のために《清教徒》を改作して上演する契約をナポリのサン・カルロ劇場と結んだ。これはコレラによる船舶輸送の停滞で総譜がナポリに届かず、上演されずに終わった。
一方、マリブランにも予期せぬ不運が待っていた。1836年7月ロンドン近郊で乗馬中に落馬し、大怪我をしたのだ。治療を拒否した彼女はその晩から舞台に立ち続け、マンチェスター音楽祭に出演中の9月14日に突然身体に変調をきたし、9日後の23日に急逝した。奇しくもその日は前年亡くなったベッリーニの命日に当たり、死因は落馬で生じた慢性硬膜下血腫とその再出血とされる。同年リコルディ社が刊行した《清教徒》の初版楽譜は、作曲者の墓前で竪琴を弾きながら歌う女性をタイトル頁にあしらい、マリブランに献呈出版されている。
(『モーストリー・クラシック』2021年12月号の拙稿「ベッリーニとマリブラン」を要約)
水谷彰良「ベッリーニとマリブラン」
(『モーストリー・クラシック』2021年12月号より
28-29頁)