サリエーリ拾遺

 

サリエーリに関する文章などの再録  

この頁には、筆者がこれまでに書いた文章や講演配布資料などを掲載します。はじめの2つは2017年に二代目松本白鸚を襲名する前に九代目松本幸四郎が出演したピーター・シェファーの劇『アマデウス』に関連した文章です。FGOにサリエリが登場する8カ月前に行われたこの公演は、期間中に日本での450回の上演が達成されると共に、ジャニーズWESTの桐山照史がモーツァルト役で出演したことでも大きな反響を呼びました。(水谷彰良)

 

更新記録

 2022年5月12日──当ページを公開し、「『アマデウス』の中のロッシーニ」「真実のサリエーリ」、モーツァルトの3回

           のイタリア旅行とその誤算について記した「モーツァルトとイタリア」、2種の講演配布資料のPDF版

            (日本モーツァルト協会、2020年2月25日「モーツァルトに消された宮廷楽長サリエーリの再評価」/日本モー

           ツァルト愛好会、2021年2月20日「サリエーリのオペラとその特質~モーツァルト作品との比較を通して~)

           掲載。   

 

 2017年『アマデウス』公演のチラシ(表と裏)、プログラムのキャスト表

 

『アマデウス』の中のロッシーニ  水谷彰良 

 

 去る[2017年]8月19日、ピーター・シェファーの劇『アマデウス』(1979年ロンドン初演)の制作発表記者会見が行われました。二代目松本白鸚を襲名する九代目松本幸四郎が現在の名前で最後のサリエーリを演じ、ジャニーズWESTの桐山照史がモーツァルト役で出演するとあって大いに話題になりました。

  『アマデウス』の再演を知って筆者がすぐに思い出したのが、シェファー原作劇にロッシーニの名前が2度出てくることです。最初は第1幕第2場サリエーリ登場の独白で、「彼[グルック]が活躍していた頃は、神々とか、死者の霊とかが現れ出るのを見る為に、皆オペラに通ったのですから」の台詞に続いてこう語られます──「今では、どうです、ロッシーニが大流行で、床屋のドタバタが皆さんお気に入りだ」(『新装版 アマデウス』江守徹訳、劇書房、昭和59年。14頁。シェファーの原文は、"Nowadays, since Rossini became the rage, they prefer to watch the escapades of hairdressers.")

 次にロッシーニの名前が出てくるのは第2幕の冒頭、登場したサリエーリの次の台詞で劇が始まります。

 

  「中庭で猫が何匹も啼いていました。これが全部ロッシーニの歌に聞こえてきましてね。この頃では猫も作曲

  家同様にすっかり堕落しておりますな。以前ですと例えばドメニコ・スカルラッティの飼っていた猫なんぞは

  鍵盤の上を歩いてちょっとしたフーガの主題を弾いたといいますからね。もっともこれは啓蒙運動華やかなり

  し頃のスペイン猫の話ですから、対位法が気に入っていたのでしょう。近頃では猫という猫みなコロラトゥー

  ラ一辺倒。これも人間様の影響でしょう。」 

   (第2幕第1場 サリエーリのサロン。同前89頁。シェファーの原文は、”I have been listening to the cats in the courtyard.

     They are all singing Rossini. It is obvious that the cats have declined as badly as composers. Domenico Scarlatti owned

     one which would actually stroll across the keyboard and pick out passable subjects for fugue. But that was a Spanish cat

    of the Enlightenment. It appreciated counterpoint. Nowadays all cats appreciate coloratura. Like the rest of the public.”)

 

 以上二つの言及について考えてみましょう。

  『アマデウス』第1幕の冒頭(第1場と第2場)の舞台設定は、「ヴィーン」「サリエーリの部屋、1823年11月、深夜」。同じシェファーが脚本を書いた映画版『アマデウス』(ミロス・フォアマアン監督、1984年)では、主人の部屋から叫び声や唸り声を聞いた二人の召使が扉を開けるとナイフで首を切った血まみれのサリエーリが映し出され、続いて精神病院でのサリエーリと若い神父の会話になります。どちらも時の設定は一定の事実に基づきます。なぜなら史実のサリエーリが娘たちの希望でヴィーン総合病院に半ば強制的に入院させられたのが1823年10月、翌11月22~25日のベートーヴェンの筆談帖には甥カールの手で、「サリエーリは自分の喉を切りました。しかし、まだ生きています」と書かれているからです。

 前記の台詞、「ロッシーニが大流行で、床屋のドタバタが皆さんお気に入りだ」は、1810年代末からロッシーニのオペラがヴィーンで人気を博し、1822年3月末~7月のロッシーニのヴィーン訪問で熱狂が頂点に達した時代背景を端的に言い表しています。

 第2幕の冒頭も同様で、ヴィーン人を虜にしたロッシーニの装飾歌唱とコロラトゥーラの歌唱様式を「猫の鳴き声」と揶揄しているわけです。そこに《猫のフーガ》として知られるドメニコ・スカルラッティのソナタ(ト短調、K.30/L.499)の話を入れたのは、シェファーのペダンティズムかも知れません。ちなみに《二匹の猫の滑稽な二重唱》として有名な曲(ロッシーニの音楽を第三者が編曲した作品)は当時存在していませんが、サリエーリの台詞で想起した人も多いでしょう。ともあれ『アマデウス』の原作劇におけるロッシーニへの言及は、サリエーリ晩年のヴィーン音楽界とその空気を巧みに示すものと言えます……観客に理解できるかどうかは別ですが……。

 けれども映画版『アマデウス』ではロッシーニに言及されません。これはドラマをモーツァルトとの出会いからその死までに絞り込み、1823年当時のヴィーン音楽界を捨象して老サリエーリの登場をオープニングとエンド・シーンに限定したためです。インパクトのある精神病院でのサリエーリを描けば人間ドラマとして完璧……その意味でも原作劇と映画版『アマデウス』は別物と言えます。

 なお、1816年12月に《タンクレーディ》を観劇したサリエーリがその音楽に批判的で、1820年にもロッシーニがイタリア・オペラを誤った傾向に陥らせていると批判したこと、そんな彼が1822年にロッシーニと親しく交際し、面と向かってモーツァルト毒殺疑惑の真偽を尋ねられた話は拙著『サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社、2004年)第7章で明らかにしました。同書を読めば、『アマデウス』のサリエーリ像がフィクションであることが判るはずです。

 9月24日~10月9日にサンシャイン劇場で行われる東京公演は早々とチケット完売と聞きます。幸い筆者は、23日に行われたマスコミ向けのゲネプロを見せてもらいました…1982年の初演と最初の再演(83年)から実に34年ぶりの観劇です。75歳の幸四郎さんの若々しさと卓抜な演技に驚愕! モーツァルト役の桐山照史くんとコンスタンツェ役の大和田美帆さんも見事に演じ、現代の古典というべき名作『アマデウス』の真価を再認識しました。

 個々の台詞はアレンジされていますが、ロッシーニへの言及に関しては、第1幕第2場サリエーリの台詞に続いて幸四郎がフィガロのカヴァティーナをデフォルメして「フィガロ…フィガロ…フィガロ、フィガロ、フィガロ」とリズミカルに追加していました。第2幕の冒頭はスカルラッティからコロラトゥーラのところまでを割愛し、さらっと流しましたが、ロッシーニのくだりはあって笑えました……笑ったのは筆者と連れ合いだけでしたが……。 

(日本ロッシーニ協会メールマガジン「ガゼッタ」第166号、2017年9月29日配信の拙稿より、一部表記を変更)

 

 

 2017年『アマデウス』のプログラムと「真実のサリエーリ」の掲載頁(見開き) 

 

真実のサリエーリ  水谷彰良

 

 小柄な体型で太っても痩せてもいない。生き生きとした眼をし、黒髪だった。遊び事と無縁で水しか飲まなかったが、甘いものは大好き。娯楽は読書、音楽、独りでする散歩。怠惰を憎み、不敬虔を嫌い、陽気で快活な彼は、機知に富む会話で常に仲間に求められた……これが死の2年後、ウィーンで出版された最初の伝記に描かれたサリエーリの人物像である。天才に嫉妬して神に挑戦する傲岸不遜な男ではなく、優しく人望の厚い宮廷楽長、それが真実のサリエーリだった。

 1750年8月18日、アントーニオ・サリエーリ (1750~1825) は北イタリアのヴェローナ近郊レニャーゴで商人の息子として生まれた。10歳からヴァイオリンとオルガンを学び、14歳で孤児になるとヴェネツィア貴族モチェニーゴ家に引き取られ、ウィーン宮廷作曲家ガスマンの弟子として神聖ローマ帝国の首都に足を踏み入れたのは16歳の誕生日の2カ月前だった。利発で人好きのする少年は、ヨーゼフ2世、詩人メタスタージオ、作曲家グルックに愛され、周到な教育を施された。

 最初のオペラ《女文士たち》(1770年) を19歳で作曲したサリエーリは、翌年初演した正歌劇《アルミーダ》で才能を開花させ、喜歌劇《ヴェネツィアの市》(1772年) により大成功を収めた。1774年には師ガスマンの死を受けてウィーン宮廷室内作曲家兼イタリア・オペラ指揮者に任命され、皇宮に住居を与えられたが、前年同地に来たモーツァルトは自分の出世の妨げになると考え、サリエーリを敵視した。だが、宮廷音楽、歌劇場、音楽家協会を運営する24歳のサリエーリが6歳年下のモーツァルトをライヴァル視した形跡はなく、1778年ミラノ・スカラ座こけら落としの《見出されたエウローパ》を作曲して活動の場を拡げ、ヴェネツィア初演《やきもち焼きの学校》の成功によりその名はイタリア全土に轟いたのだった。

 1784年にはグルックの推薦でフランス歌劇《ダナオスの娘たち》をパリ・オペラ座で初演、大成功を収める。そして新作《タラール》(1787年) の熱狂的成功を知ったヨーゼフ2世はサリエーリを国立劇場楽長に迎え、翌1788年3月、年俸1200フローリンでウィーン宮廷楽長とした。その間年俸800フローリンで宮廷作曲家のポストを得たモーツァルトは、後に多忙なサリエーリに代わって《コジ・ファン・トゥッテ》と新皇帝レーオポルト2世のボヘミア王戴冠を祝う《ティートの慈悲》を作曲する。現代の研究者クリストフ・ヴォルフは、両者の友好関係があればこそモーツァルト最後の4年間の豊饒な創作活動が可能になった、と結論づけている。

 モーツァルトの死後も30年以上ウィーン宮廷楽長を務めたサリエーリは、楽団の指導、祭事の監督、楽譜の管理、請願の処理など多岐にわたる職務をこなしつつ、新たに11のオペラを作曲した。そこには後世の評価が高い《逆さまの世界》(1795年) と《ファルスタッフ》(1799年) も含まれるが、より重要なのは帝立音楽院の礎となる歌唱学校を設立し、モーツァルトの遺児、フンメル、ベートーヴェン、チェルニー、シューベルトを指導した教育者としての役割である(10歳のフランツ・リストも短期間サリエーリに師事した)。だがその功績も、晩節を汚すモーツァルト毒殺疑惑と新たな天才ロッシーニの出現で歴史の闇に葬られることに……。

 とはいえ世の中悪い事ばかりではない。『アマデウス』がモーツァルト毒殺疑惑を再燃させたおかげで関心が高まり、サリエーリの生涯と作品の復興が始まったからだ。オペラの再上演も相次ぎ、生誕250年の2000年には故郷レニャーゴでサリエーリ音楽祭が開始された。作品の復活で明らかになったのは、時代を突き抜けたモーツァルトの才能に及ばぬもののサリエーリがパイジエッロやチマローザに比肩するオペラの巨匠であり、公私にわたる活動で「ウィーン音楽界の父」と呼ぶにふさわしい業績を残したことである。

(2017年9-10月『アマデウス』プログラム掲載の拙稿の元原稿)

 

 

 『モーストリー・クラシック』2018年8月号の表紙、「モーツァルトとイタリア」の掲載頁(見開き。20-23頁)

 

モーツァルトとイタリア  水谷彰良

 

イタリアのモーツァルト

 パリやロンドンを訪問した3年半に及ぶ西方への大旅行、1年4カ月に及んだ第2回ウィーン旅行により、神童モーツァルトの存在は広く知れ渡った。父レーオポルトが14歳になろうとする息子にオペラ作曲家としての未来を考え、新たな旅行先にイタリアを選んだのも当然のなりゆきと言える。オペラ誕生の地イタリアはヨーロッパ全土に卓越した作曲家と歌手を送り出したが、ヘンデルがロンドンでイタリア・オペラの大家となったことでも解るように、国籍と無縁に才能と実力だけで評価される時代が到来していたのだ。そのためにはイタリア・オペラの様式を完全に身に着け、数多くのライヴァルを凌駕しなければならない。イタリアの地を踏まずして、それは不可能だった。

 モーツァルト最初のイタリア旅行は、1769年12月から1年3ヶ月の長期に及ぶ。ミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマを経てナポリまで達し、帰路にはヴェネツィアにも足を延ばした。ヴェローナやマントヴァの小都も含め、現代イタリア観光の要所が網羅されており、ポンペイ遺跡も訪ねた。モーツァルトはその後も2回イタリアを旅行するが、オペラを初演するためのミラノ行きなので、仕事のための出張とする方が適切である。

 3回の旅で三つの歌劇を初演して大成功を収め、教皇から黄金の軍騎士勲章を授与される栄誉も得る。そうした経験がヴォルフガングを飛躍的に成長させたことは疑いえない。だが巨視的に捉えれば、その後の運命を左右する誤算もあった。その理由は本稿最後に述べるとして、まずは3回の旅を見ていこう。

 

第1回イタリア旅行(1769年12月~1771年3月)

 1769年12月13日、父に伴われてザルツブルクを発ったヴォルフガングは、行く先々の都市で演奏して大評判となった。2週間滞在したヴェローナではチェンバロ協奏曲を初見で弾き、与えられた詩句にアリアを作曲して歌う試験もクリヤーすると、感銘を受けた貴族の依頼で肖像画が描かれた(サヴェリオ・デッラ・ローザによる油彩。上図)。天才少年の到来は新聞を通じて北イタリア諸都市に喧伝され、ヴォルフガングは14歳の誕生日の4日前に、オーストリア帝国領ロンバルディーアの首都ミラノに到着した(1770年1月23日)。統治者は女帝マリア・テレジアの息子フェルディナント大公である。

 文芸の保護者でもある総督府長官カール・ヨーゼフ・フィルミアーン伯爵は演奏会でヴォルフガングの才能を確かめてメタスタージオ全集を贈り、新たな音楽会を催してモデナ大公エルコレ3世とその娘マリーア・リッチャルダ・デステに紹介した(2月23日)。マリーアは後にフェルディナント大公妃となり、ヴォルフガングはその婚礼祝いの音楽劇を求められる。伯爵は3月12日にも大音楽会を催してヴォルフガングの才能を有力貴族に示し、これがきっかけで《ポントの王ミトリダーテ》を委嘱された(後述)。ここまでに面識を得たオペラ作曲家に、サンマルティーニ、ピッチンニ、後述するランプニャーニがいた。

 続いてローマへの途上4日間滞在したボローニャでは、4点ハ音の超高音を歌うルクレツィア・アグヤーリに驚嘆し、伝説的カストラートのファリネッリにも会うことができた。著名な理論家マルティーニ師に才能を認められ、その教えを受けたのも重要である。

 トスカーナ大公に謁見を賜ったフィレンツェを経て、4月11日ローマに到着する。敬虔なカトリック教徒の父レーオポルトにとっての聖地巡礼であるが、システィーナ礼拝堂でのみ演奏を許された秘曲、アッレーグリの《ミゼレーレ》をヴォルフガングが記憶して五線譜に書き写した逸話もここで現れた。

 5月14日から滞在したナポリでは、王立サン・カルロ劇場にてヨンメッリの新作《見捨てられたアルミーダ》の舞台稽古と初演に列席した。ヴォルフガングが「芝居としては時代遅れ」と感想を述べたため後世に駄作と誤解されたが、録音を聴けばオペラ・セリアの秀作と判る。アルミーダ役のアンナ・デ・アミーチスは後に《ルーチョ・シッラ》を初演する名歌手である。40日間に及ぶナポリ滞在でヨンメッリ、デ・マーヨ、パイジエッロにも会ったが、日程の多くを近郊の景勝地観光に費やし、《見捨てられたアルミーダ》以外に観劇したオペラは1作のみとあってナポリ楽派の神髄にふれる機会を逃した。

 帰路ローマで教皇クレメンス14世から賜った黄金の軍騎士勲章はグルックが得たより上級で、ルネサンスの巨匠ラッススのみが持つ勲位だった。後年ヴォルフガングはこの勲章をつけた肖像画を描かせ、マルティーニ師に寄贈している(1777年)

 

ミラノで初演した《ポントの王ミトリダーテ》

 7月にボローニャまで戻ったヴォルフガングは、3幕のオペラ・セリア《ポントの王ミトリダーテ》K.87 [74a] の台本と配役を受け取った。貴族の別荘に逗留して作曲を始め、その間マルティーニ師の教えを受け、ボローニャ音楽アカデミーの試験にも合格した。10月18日ミラノ入りし、アリアの作曲と歌手のための修正を経てオペラは完成されたが、プリマ・ドンナのアントーニア・ベルナスコーニに他の作曲家のアリアを歌わせようとする策謀もあったという。幸い彼女と劇場マエストロのジョヴァンニ・バッティスタ・ランプニャーニが音楽を絶賛し、12月26日の初演も無事終えることができた。

 物語はラシーヌの悲劇『ミトリダーテ』に基づき、ポントの王ミトリダーテが婚約者アスパージアを残して出陣し、息子たちを試すために戦死したとの噂を流す。それを信じた長男ファルナーチェが彼女に言い寄るので、帰国した王は長男の裏切りに怒り、アスパージアが弟の王子シーファレに好意を抱いていると知る。やがてローマ軍との戦いに赴いた王は重傷を負い、シーファレに王位を譲ってアスパージアと結ばせ、息を引き取る。

 1717年に開場したミラノ大公宮廷劇場は、後継のスカラ座とは異なり宮殿内に設営され、5層のパルコ(ボックス)の4階両サイドに賭博場が併設されていた。初演はバレエ込みで6時間の長尺であったが大成功を収め、21回上演された。『ミラノ新聞』の批評も、「たぐい稀な魅力の音楽」を絶賛している。

 年が明けてヴェローナ音楽アカデミーから名誉楽長の称号を得たヴォルフガングはトリノを訪問し、2月11日から3月12日までヴェネツィアに滞在して複数のオペラを観るとともに、ミラノでの新作オペラと祝典劇の依頼を受けた。かくして未来への希望を胸に、3月28日ザルツブルクに帰郷したのだった。

 

第2回イタリア旅行(1771年8月~12月)

 5カ月後の8月21日、ヴォルフガングはミラノ大公とモデナ大公女の結婚を祝う2幕の祝典劇(フェスタ・テアトラーレ)《アルバのアスカーニオ》K.111 を初演すべくミラノを再訪した。ウィーンで検閲に付された台本に作曲を終えたのは9月23日である。物語は婚礼祝いにふさわしく、女神ヴェーネレが息子アルカーニオを神聖な血を引くニンフのシルヴィアと結婚させようとする。愛の神の手引きで夢の中で麗しい若者に恋したシルヴィアは、目の前に現れたアスカーニオに惹かれながらも神意に従おうと決意する。その美徳でアスカーニオが夢の若者であると明かされ、2人は結ばれる。

 音楽はアリア、合唱、バレエを中心に構成され、モーツァルトはイタリア趣味に沿った爽やかな音楽で彩り、ソリスト全員が華麗なアリアを歌う。1771年10月17日、大公宮廷劇場で行われた初演は、ロンドンで面識を得たカストラートのジョヴァンニ・マンズオーリがアスカーニオ役を演じて大成功を収め、先に上演されたハッセの新作《ルッジェーロ》を上回る評価を得た。15歳のヴォルフガングの才能を確信したフェルディナント大公は、母マリア・テレジアに彼を宮廷作曲家にしたいと相談したが、「物乞いのように世間を渡り歩く無用な人間を雇い、肩書を与えてはならない」と反対され、話は立ち消えとなった。

 

第3回イタリア旅行(1772年10月~1773年3月)

 1年後の1772年10月下旬から翌年3月まで5カ月間に及ぶ第3回イタリア旅行も、ミラノで3幕のオペラ・セリア《ルーチョ・シッラ》K.135 を初演する目的でなされた。作曲はザルツブルクで始められたが、台本作家ガメッラがメタスタージオに台本を送って手直しされ、モーツァルトも改作を余儀なくされた。劇の主人公は、友人チェチーリオを追放してその婚約者ジューニアを妻にしようとする独裁者シッラ。チェチーリオはシッラ暗殺に失敗してジューニアと共に死刑を覚悟するが、シッラは最後に彼らを許し、自分の地位を放棄する。

 旧知の卓越した歌手を前提に完成されたこの作品では、チェチーリオ役をカストラートのヴェナンツィオ・ラウッツィーニ、ジューニア役をアンナ・デ・アミーチスが務めた。モーツァルトが「天使のように歌い演じる」と称えたデ・アミーチスの卓越した技巧は、「おそろしく難しいパッセージが幾つもある」とみずから認めた第2幕アリア「ああ、もしもひどい危険を」に聴き取れる。

 1772年12月26日、大公宮廷劇場における初演は、大公の遅刻で開演が遅れて混乱したものの、翌年1月末まで26回上演される成功を収めた。この滞在中にラウッツィーニのために作曲したのがモテット《エクスルターテ・ユビラーテ》K.165 [185a] である。

 

イタリア旅行がもたらした誤算

  《ルーチョ・シッラ》は時代最高のオペラ・セリアであったが、女帝から雇用を反対されたミラノ大公はヴォルフガングを引き留めなかった。そしてこれが、就職活動を兼ねたイタリア旅行最大の誤算となる。なぜなら大公の宮廷作曲家となってミラノに定住すれば、ヨーロッパ随一のオペラ作曲家への道を歩み出せたからだ。でもそれを知らぬ17歳のモーツァルトは、1773年3月13日ザルツブルクに帰郷すると、二度とイタリアの地に足を踏み入れなかった。

 オーストリア領内のミラノで初演した3作でイタリア全土を征服した気になったのか。それとも、ザルツブルク大司教に仕える父子にウィーンが最終目的地に思えたのだろうか。どちらも大きな間違いである。ヨーゼフ2世の気まぐれに左右されるウィーンのオペラ界は、少数の詩人、作曲家、歌手が形成する小さなコミュニティにすぎず、サリエーリが確固とした地位を得ていればモーツァルトに出世の可能性は乏しかった。

 独立した国家ではないイタリアがオペラの聖地であり続けたのは、興行師、卓越した歌手と作曲家によるネットワークが確立され、英国、スペイン、フランスからロシアに至る広大な地域に覇権を得ていたからである。常に新たな才能を求めるイタリアでは、有能な人材を発見したらただちに仕事をさせる伝統があった。10代の少年にオペラを作曲させることも珍しくない。その証拠にナポリでヴォルフガングの演奏を聴いた興行師ジョヴァンニ・アマドーリは、即座にサン・カルロ劇場のためのオペラを求めたのだ。そしてミラノとの契約があると断られると、ボローニャかローマでオペラを書けばすぐに王立劇場のための契約書を送ると確約した。不幸にしてモーツァルト父子はこうした出会いを重視せず、著名な歌手、作曲家、興行師と積極的な関係を持とうとしなかった。

 コロレード大司教の音楽家として再出発をし、召使のような待遇に反抗して侍従長アルコ伯爵に足蹴にされた25歳のモーツァルト。そんな彼がウィーンではなく単身ヴェネツィアやナポリに新天地を求めていれば、その後の人生は全く別なものになったに違いない。エカチェリーナ2世の求めでロシアの宮廷楽長となったパイジエッロ、その後継者でレーオポルト2世からウィーンの宮廷楽長に求められたチマローザがそうであるように、イタリアでの真の成功こそがヨーロッパを征服する出発点だったからである。

(『モーストリー・クラシック』産経新聞社、2018年8月号、20-23頁掲載の文章を改稿)

 

 

モーツァルトに消された宮廷楽長サリエーリの再評価

──日本モーツァルト協会 講演配布資料  水谷彰良

 

2020年2月25日(火)日本モーツァルト協会にて講演「モーツァルトに消された宮廷楽長サリエーリの再評価」を行いました(会場:東京文化会館大会議室)。その配布テキストをPDF版で掲載します。 こちらをクリックしてご覧ください。 

 

サリエーリのオペラとその特質~モーツァルト作品との比較を通して~ 

──日本モーツァルト愛好会 第496回例会 講演配布資料  水谷彰良

 

2021年2月20日(土)日本モーツァルト愛好会の第496回例会にて講演「サリエーリのオペラとその特質~モーツァルト作品との比較を通して~」を行いました(会場:トーキョーコンサーツ・ラボ)。その配布テキストをPDF版で掲載します。こちらをクリックしてご覧ください。 

 

  

ページTOPへ