ヴェルディ研究(4)「オペラの検閲」と「《椿姫》初演失敗の真相」
この頁には「ヴェルディ研究(4)」として、『モーストリー・クラシック』2018年11月号に掲載された二つの拙稿「イタリア・オペラにおける “検閲” という存在」(19-21頁) と「『椿姫』の初演 “失敗” の真相」(26-27頁) の元原稿を掲載します(書式と表記を一部変更)。ヴェルディとその作品に特化した原稿ではありませんが、文章の中核をなすことから掲載します。
「ヴェルディ研究(1)」「ヴェルディ研究(2)」「ヴェルディ研究(3)」と共にお読みください。 (2026年6月9日公開。文責:水谷彰良)
なお、筆者は日本ヴェルディ協会の初年度(2001年)から会員として活動に協力し、2002年から14年まで毎年講演を行いました(2006年は多忙でお断りしましたが、サリエーリで良いと言われ引き受けました)。理事の原山道衛氏さん永竹由幸さんが2012年に没したことを受け、2015年度を最後に退会したので以後講演依頼がありませんが、もしかすると日本ヴェルディ協会で最も数多く講演した人が私かもしれません。
2002年1月20日「ヴェルディ作品の演奏慣習と楽譜解釈について」
2003年2月22日「オペラ史におけるヴェルディの特殊性―オペラの著作権確立をめぐって」
2004年1月31日「ヴェルディはベルカントを殺したか?」
2005年1月29日「ヴェルディ作品における死とその描き方」
2006年6月10日「サリエーリの生涯と作品」
2007年1月20日「ヴェルディ時代のオーケストラとバンダ」
2008年1月26日「二つの世俗的合唱曲《民衆賛歌》と《諸国民の賛歌》(革命、万博と音楽)」
2009年1月17日「ヴェルディの歌曲と室内声楽曲」
2010年1月31日「ジョルジョ・ロンコーニとロマンティック・バリトンの誕生」
2011年1月22日「批判校訂版が変えた現代のヴェルディ演奏」
2012年1月28日「ヴェルディの先駆者メルカダンテ」
2013年1月19日「日本におけるヴェルディ受容(明治・大正・昭和)」
2014年1月19日「1916~30年の全曲録音に聴く20世紀初頭のヴェルディ演奏の痕跡と変容」
イタリア・オペラにおける “検閲” 水谷彰良
音楽は鳴り響く音であるかぎり、自由に表現することができる。作曲家が曲に特別な思想信条を込めても、それが言語化されなければ検閲や批判の対象とはならない。ベートーヴェンはナポレオンへの共感から交響曲第3番を作曲したが、ナポレオンに献呈するのをやめ、題名を「英雄的な交響曲」としたのでお咎めなしだった。それを知った劇作家グリルパルツァーがベートーヴェンに語った言葉は意味深である──「音楽家が羨ましいです。検閲に煩わされることがないのですから。でも、もしも検閲官が、作曲家が作曲する際なにを考えているか知ったら、どうなるのでしょう」。
役者が台詞で演じる芝居は、古くから国家や行政府の規制の対象とされてきた。近代イタリアで誕生したオペラも芝居の一形式だが、初期のオペラは宮廷演劇であり、王侯貴族の祝賀行事や君主の威光を称える目的で作られたので問題が生じない。これに対し、公衆の面前で上演する商業演劇は当局の監視対象となる。17~18世紀イタリアの商業オペラは興行師が貴族所有の劇場や公設劇場を一定期間貸与されたので、作品に関する責任を興行師が負った。当局が公序良俗に反すると判断すれば中止を命じられるから、おのずと自主規制が働く。破産や投獄の憂き目をみるのは、興行師や台本作家なのだ。
それゆえ当局の眼は、作品よりも劇場内の秩序維持に注がれる。ローマを首都とする教皇国家では、歴代の教皇が世俗演劇を不道徳として国立の劇場を認可せず、オペラは民間劇場でのみ上演された。教皇政府はこれを監視する委員を選出し、取り締まりの要綱を領内の都市に通達した。1787年の公文書では、「紙吹雪、ソネット、手書きや印刷した紙類を撒く」、「歌手に対するアンコールの強要」、「刃物や武器になりうる物の持ち込みや携帯」などが禁止事項として列挙されている。場内での争論や喧嘩、度を越した拍手も規制の対象となり、違反者は厳罰に処せられたが、台本や作品に対する検閲基準は示されていない。
イタリア全土でオペラの検閲が強化されるのはフランス革命が発端で、フランス軍の占領期を経て王政復古が確定した1815年以後、より厳しい規制が敷かれた。1818年の教皇国家の通達はすべてのオペラと劇台本を検閲の対象とし、地方警察長官の許可なしに上演できないと言明している。行政長官に指名された劇場委員会のメンバーは毎晩開場から終演まで上演に列席し、禁じられた台詞や演技、不適切な衣装の有無などの監視を義務付けられた。長官の命を受けた警部も毎回上演に列席し、違法行為を上司に報告し、厳罰を科すよう求められたのである。
その結果、新作歌劇は事前検閲を前提に、次の制作過程を経て初演を迎えた。
(1) 作家が劇の梗概を検閲局に提出し、問題なしと判断されて台本の制作に着手する。
(2) 完成台本を検閲局に提出し、正式な上演許可を得る。
(3) 作曲家が台本に音楽を付け、新たなシーンやアリアが必要になった場合は、別途検閲局に許可を求める。
一見当たり前のステップだが、現実にはさまざまな問題を生じた。最初の梗概(あらすじ)チェックは、題名、登場人物名、劇の設定と物語の骨子に及ぶが、検閲基準は国家や地域ごとに異なり、他の都市で許された題材が不許可になることもあった。ローマの劇場に新作を求められたロッシーニはナポリで作らせた台本《宮廷のニネッタ》を持参したが、検閲局から大幅な変更を命じられ、ローマ在住の作家に新たな台本を求めた。こうして誕生したのが、《ラ・チェネレントラ》(1817年)である。
複数の劇場から新作を委嘱され、地域ごとに異なる検閲基準を上手に利用したのがヴェルディだった。事前にタイプの異なる題材や台本を用意し、検閲を通った都市で使ったのだ。「二人のフォスカリ」(1844年)もその一つで、ヴェネツィアの検閲が不可としたそれをローマで初演した。ヴェネツィアの元首が無実の息子を刑死させる物語がヴェネツィアで許可されるはずもなく、それを承知で提出したところに反権力の姿勢が透けて見える。
ヴェルディが次にローマで初演した《イル・トロヴァトーレ》(1853年) はみずから題材を選び、フィレンツェやナポリの興業師と交渉したが、ローマの興業師が関心を抱いて梗概を求め、検閲局に提出したことで流れが変わった。検閲官は魔女をジプシー女とし、言葉で発することのできない追放者や戦闘集団の名称の除去、火刑を異端審問の刑罰と区別して単なる死刑にすること、自殺は禁じられているのでレオノーラが舞台で毒を仰ぐのは不可などの修正点とともに、「教会」「修道院」「誓い」などの言葉を使わぬよう求めた。
事細かな検閲の要求をヴェルディはすべて呑んだ。妥協したのではない。1848年にイタリア独立運動が高まり、シチリア、ロンバルディア、ヴェネツィア、ローマで革命政府や共和国が誕生しながら敗北し、旧に復した結果、オペラに対する検閲が以前にも増して厳しくなっていたのだ。
1849年末ナポリで公布された検閲要綱がその見本で、「題材が宗教、政治、道徳を直接的に毀損するいかなるオペラも容認されない」の文言で始まり、神の存在や神性に疑いを向けるものをすべて反宗教とみなし、該当する事項──異教をキリスト教と同列に置いて称揚すること。聖職者への名誉棄損。神や聖人を呪うこと。世俗オペラにおける宗教的記号やシンボルの使用、等々──が列挙されている。加えて国王とその一族に対する毀損、王権の正当性や政府とその政策、体制と法に対する批判は外国に対するものも含めて禁止され、道徳や公序良俗に反する行動、衣装、演技、台詞、設定、挿話、決闘の擁護も禁止対象で、該当する違反が一つでもあれば上演禁止の理由になる、と言明されたのだ。
それ以前に作られたオペラは、多少なりとも前記の禁止事項に抵触した。それだけではない。検閲を通すために人物の名前や設定を変えることも原則不可とされたのだ。これは抜け道を閉ざされたのも同然で、後述するようにローマの検閲局はそれを容認していた。
そんな反動期に、史実のスウェーデン国王グスタフ3世暗殺事件を描くなど土台無理な話。原作はウジェーヌ・スクリーブがオベールのために書いた《ギュスタヴ3世、または仮面舞踏会》。ヴェルディはナポリからの新作依頼に応え、イタリア・オペラ化をはかったが、《グスターヴォ3世》の筋書きを読んだナポリの検閲局はこれを不許可とした。
台本作家ソンマは時と場所を17世紀後半のポーランドに移した《ドミノの復讐》を再提出したが、検閲官の新たな修正指示にヴェルディはナポリでの上演を断念、ローマの検閲局に提出したのだった。折衝の結果、題材と設定を変えて舞台をヨーロッパ以外に移せば構わない、との解決策を引き出したヴェルディは、ウォーリックのリッカルド伯爵を主人公に舞台を17世紀ボストンに移し、《仮面舞踏会》と題してこれを完成すると、1859年の初演で大成功を収めたのである。
そんな経緯を見ると、宗教都市ローマの検閲が意外に緩かったことが判る。これには別な要因もあった。教皇国家は公式には劇場の存在を認めないのに興行税を徴収し、興業師に宗教組織への寄付を強要して利益を吸い上げていたのである。だから厳格な基準で作品を排斥せず、他の都市の上演作品はすべて専門の校閲官が劇の設定、役名、詩句を勝手に変えて舞台にかけたのである。ロッシーニ《アルジェのイタリア女》も検閲局が《幸せな難船》と改題し、ロンド「祖国のことを考えなさい」の「祖国」が「妻」に変えられた。《オテッロ》もデズデーモナを殺したオテッロが自殺する設定を認めず、ハッピーエンドにされた。
こうした措置はロマン派の時代に徹底され、《椿姫》も初演間もない1854年のローマ上演で《ヴィオレッタ》と改題され、ヒロインが高級娼婦ではなくアルフレードと出会って初めて恋を知る乙女に変えられた。それを知ったヴェルディは、「ドラマの意味を破壊し、状況設定と配役のすべてを破壊した」と激怒したが、教皇国家における校閲官の改作上演を止めさせることはできなかった。
地域ごとの検閲格差が失われるのは1861年のイタリア王国成立と、これに続く国家統一のおかげである。中央集権化で検閲が内務省の部局に集約され、オペラに対する規制が統一前よりもはるかに緩くなったのだ。キリスト教に対する配慮も、ローマ遷都で教皇が「ヴァティカンの囚人」となって以後、急速に後退した。
実在する聖アンドレア・デッラ・ヴァッレ教会の内陣を舞台に再現し、主を称える「テ・デウム」をバックにスカルピアが「トスカ、お前は神をも忘れさせる!」と叫ぶプッチーニの《トスカ》(1900年) は、拷問、刺殺、銃殺、投身自殺を舞台でリアルに描く点でも検閲や規制の存在を忘れさせる作品となっている。
(水谷彰良 Text by Akira Mizutani)
《椿姫》初演 “失敗” の真相 水谷彰良
オペラに失敗やスキャンダルは付き物だが、初演で失敗した作品は余程のことがないと後世に残らない。それゆえ歴史に残る大失敗も、後に評価が逆転して傑作とされた作品が多い。すぐ思いつくのが初演初日に失敗し、2日目に大成功に転じたロッシーニ《セビーリャの理髪師》(1816年) である。僅か1日で評価が逆転すること自体異例だが、巨匠パイジエッロと同じ題材に作曲した若造を罰するべく老人たちが初日のチケットを買い占めて妨害し、これに怒った若者たちが2日目の上演に詰めかけて成功に導いたとされる。
プッチーニの名作《蝶々夫人》も1904年2月17日ミラノ・スカラ座の初演が大失敗を喫した。これはリコルディ社と対立するソンゾーニョ社に雇われた「さくら」の妨害が発端で、異国趣味の斬新な音楽に戸惑う聴衆も加担したようだが、真実はいまなお藪の中である。ショックを受けたプッチーニは終演後に2人の台本作家と連名で上演中止を通告し、続くローマ上演をキャンセルして違約金の支払いに応じた。現在上演されるのは、その後改訂を重ねた決定版である。ちなみに1日でお蔵入りした初演版は1997年に世界初録音され、ミラノ・スカラ座も2016年12月7日、112年ぶりの復活上演をリッカルド・シャイーの指揮で行った(註:上演映像は後日DeccaからBDとDVDが発売された)。
これとは逆に、後世に誤って失敗と思われた名作もある。『新グローヴ・オペラ事典』が、「ヴェルディ後期のキャリアにおける最も有名な大失敗」とした「椿姫(ラ・トラヴィアータ)」がそれだ(1853年3月6日ヴェネツィアのフェニーチェ劇場初演)。これはヴェルディ自身の手紙が発端で、初演の翌日弟子ムツィオに、「昨晩失敗。私のせいか、歌手たちのせいか? 時がそれを判断するだろう」と書き送った。同日指揮者マリアーニ宛の手紙にも、「椿姫は大失敗した。悪いことに聴衆は笑ったのだ」と書く。2日目の上演後にはパリの出版社主エスキュディエへの手紙に、「昨晩、椿姫が舞台にかけられ失敗した。決定的失敗。原因を探したくはありません」と記したから尋常でない。
ムツィオ宛の手紙はリコルディ社の『ミラノ音楽新聞』に転載されたので、後世の書き手は話をふくらませ、ヴィオレッタを演じた体重130kgのサルヴィーニ=ドナテッリ夫人がヒロイン病死のフィナーレで観客の笑いを誘い、見るも無残な失敗を喫したと説明した。けれども1996年成立の全集版は、ヴェネツィアの初演批評、公演収益、謝肉祭の終わりまで9回上演された事実を基に、成功だったと結論づけている。
ではなぜヴェルディは、自作の初演失敗を声高に宣伝したのだろう。事前にフェニーチェ劇場支配人に対して「絶対にサルヴィーニ夫人へ与えるわけにはいかない」と言明しながら契約上の理由で叶わず、他の歌手にも不満を持っていたのだ。そのことはヴェルディが同じキャストの再演を拒否し、後日もっと良い歌手を得て改作し、翌年5月ヴェネツィアのサン・ベネデット劇場における上演が大成功を収めたことでも推測しうる。だとしても、一連の手紙でヴェルディが歌手に原因があるかのように騒いだのは、意地が悪すぎるのではないか?
クルティザンヌもしくはドゥミ=モンデーヌと呼ばれたパリの高級娼婦を主人公とする《椿姫》は、そもそもスキャンダラスな題材だった。原作となるデュマ(息子)の小説『椿を持つ女』は、実在の高級娼婦マリー・デュプレシとの恋を下敷きにした実録物である。戯曲版もパリの検閲が不謹慎として数年間上演を許さず、ロンドンでも上演不可とされた。ヴェルディがこのドラマに共感した背景には、同棲する元オペラ歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニが不道徳な女と侮辱され、村八分になった私怨もあるようだ。
不思議なことに、ヴェネツィアの検閲局は『椿を持つ女』のオペラ化に反対せず、当初の題名《愛と死》と、同時代の衣装を用いた現代劇とすることにのみ異議を唱えた。ヴェルディは《道を誤った女(ラ・トラヴィアータ)》と改題し、時と衣装を1700年頃の設定に変えただけで許可されたのだ。これに関して、検閲局が高級娼婦の末路を観客に教訓として示そうとしたのではないか、と推測する研究者もいる。だが、ヴェルディはそんな思惑を超え、社会が不道徳とした女が真の愛に目覚め、悲劇的な死を迎える物語をリアルに描き、普遍的ドラマへと高めたのだった。
オペラのスキャンダルは作品や初演失敗にとどまらない。歌手の不調が原因で大騒動となったのが、1958年1月2日、大統領夫妻の臨席したローマ歌劇場の《ノルマ》である。その日マリア・カラスが喉の不調のため第1幕で降板して事件となり、彼女のイタリアでの活動が閉ざされるきっかけになった。
筆者もそんな事件に遭遇した経験を持つ。1989年5月ミラノ・スカラ座のヴェルディ《ルイーザ・ミラー》がそれで、初日のカーティア・リッチャレッリの不調が国営放送(RAI)のテレビ・ニュースになるほど激しいブーイングをくらったのだ。筆者がスカラ座で観劇した2日目もリッチャレッリの調子は最悪で、音程とテンポがくずれるたびに「ウ~!」という観客の唸り声が場内に渦を巻き、指揮者ゾルタン・ペスコも「マエストロ、テンポ!」、「恥を知れ!」とやじり倒された。カーテンコールで盛大なブーを浴びるリッチャレッリがお辞儀の途中で頭を上げ、すごい形相で天井桟敷を睨み続けたので、火に油を注ぐ結果となった。
翌日の新聞は一面を費やし、休憩中に桟敷で観客とつかみ合いになったピッポ・バウド──テレビの人気司会者で当時のリッチャレッリの夫──が終演後、楽屋口に押し掛けた観客を「プッブリコ・ディ・メルダ[糞の大衆]!」と罵ったと報じた。特大の見出しは、「スカラ座? あんな田舎劇場じゃ二度と歌ってやらないわ!」というリッチャレッリの強烈なひと言。これをもって、ミラノ・スカラ座における彼女のキャリアに終止符が打たれたのである。 (水谷彰良 Text by Akira Mizutani)