2025年8月発行の日本ロッシーニ協会紀要『ロッシニアーナ』第45号 46~53頁に掲載した水谷彰良「ロッシーニの葬儀とその後の出来事 ── 死の翌日から葬儀までの一週間」と関連図版を掲載するこの頁を設置しました。
ロッシーニ最後の18日間と死の詳細は「ロッシーニ最後の4年間(1865~1868)」の36-41頁「健康の悪化と最後の18日間」、ロッシーニの葬儀で演奏されたレクイエムの原本については新設する「ロッシーニ作品によるパスティッチョ・レクイエム」の頁をご覧ください(準備中)。
更新記録
2026年 1 月 9日 ──当欄「ロッシーニの葬儀とその周辺」を開設
ロッシーニの死を黒枠で報じる1868年11月15日付『ラ・フランス・ミュジカル』『ル・メネストレル』『ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカル』、
現在の聖トリニテ教会
ロッシーニの霊柩馬車が向かう聖トリニテ教会前の広場(1868年11月28日付『絵入りロンドン新聞』。筆者蔵)、ロッシーニの亡骸を乗せた霊柩馬車(掲載紙不明。フランス国立図書館所蔵)、聖トリニテ教会からの出棺(12月5日付『絵入りロンドン新聞』。筆者蔵)、聖トリニテ教会を去るロッシーニの葬列 (『絵入りル・モンド』1868年11月28日付。筆者蔵)
最初に安置されたペーポリ家の墓と 翌年建立された霊廟(ペール・ラシェーズ墓地。筆者撮影)
ロッシーニの葬儀とその後の出来事 水谷 彰良
(死の翌日から葬儀までの一週間)
ロッシーニの死の翌日から葬儀の2日前までの一週間
ロッシーニは1868年11月13日(金曜日)の夜11時から15分の間に、パリ・パシーの邸宅で息を引き取った(パシーはパリに併合され、1860年にパリ16区となった)。ロッシーニが亡くなった時間はパリ市死亡記録の「23時」、主治医ヴィーオ・ボナートが1887年に書いた文書の「23時5分」、初出不明ながら20世紀後半の伝記に採用された「23時15分」と諸説ある[1]。
パリの新聞は、11月14日付『ジュルナル・デ・デバ(Journal des débats)』における「ロッシーニが夜に亡くなったことは公表されている」との追記 [2]を手始めに、15日付の日刊紙『フィガロ(Figaro)』、同日付の週刊音楽新聞『ラ・フランス・ミュジカル(La France Musicale)』『ル・メネストレル(Le Ménestrel)』『ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカル(Revue et Gazette Musicale)』などが第1面に黒枠を設けてロッシーニの訃報を掲げた(『フィガロ』のみ黒枠なし)[3]。第1面を全面黒枠にした『ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカル』は訃報の最後に、「パリはこの著名な死者に、最後の、輝かしい尊敬を払う準備をしている」と、後日執り行われる葬儀に向けた動きにふれている。
ロッシーニの亡骸は11月16日にパシーからパリ8区のマドレーヌ教会(L'église de la Madeleine)に運ばれ、その地下に仮安置された。その結果、葬儀がマドレーヌ教会で木曜日[19日]に行われるとの噂が広まり、電報でこれを知ったイタリアの新聞も17日にこれを伝えたが [4]、ほどなく21日土曜日の正午に聖トリニテ教会[後述]で執り行われることが決まった。
マドレーヌ教会の地下に仮安置されたロッシーニの棺
(1868年11月28日付『イリュストラシオン』。筆者蔵)
これに先立ち、葬儀に関する憶測がパリを駆け巡っていた。新聞の一つは、「誰もがロッシーニの葬儀に出席したいと思い、誰もがそこでどんな音楽が演奏されるのか、どんなアーティストが歌うのか、なぜ巨匠がピエ=ヴィル氏のために作曲したミサ曲ではないのか、等と疑問に思っている」と書く(18日付『祖国(La Patrie)』)[5]。ピエ=ヴィル伯爵のために作曲された《小ミサ・ソレムニス》はロッシーニが楽譜の出版を許さなかったので、葬儀で演奏される可能性はゼロだった。イタリア劇場がロッシーニの死の翌日(14日)に休演しなかったことを非難する新聞もあったが、帝国劇場でもあるイタリア劇場は皇室と芸術省の許可なしに休演できなかった。とはいえこのことで非難されたイタリア劇場の監督は、アデリーナ・パッティを含む歌手とアーティスト全員をロッシーニの葬儀に参加させ、その日の夜に巨匠の《スタバト・マーテル》を演奏すると葬儀委員会に約束した。
11月18日付『ラ・プレス(La Presse)』は、土曜日(21日)正午に予定された葬儀ではオペラ座、イタリア劇場、パリ音楽院合唱団のアーティストが協力してミサ曲がオルガン伴奏で演奏されると報じ、女性の独唱者にアルボーニ、パッティ、サス、ニルソン、男性の独唱者にフォール、カプール、ニコリーニなどの名を挙げている。同紙によればロッシーニ夫人は葬儀への出席を控えると表明し、式典のプログラムは今夜帝立音楽アカデミーとイタリア劇場の会議で決定されるとし、ロッシーニが遺言で自分の遺体のペール・ラシェーズ墓地への埋葬を指示し、アンブロワーズ・トマが墓前でスピーチをするといった葬儀後の予定も報じている [6]。
同紙は葬儀の場所をマドレーヌ教会とし、他紙も同様だが、19日付『ル・タン(Le Temps)』はこれを否定し、「ロッシーニの葬儀は明日木曜日マドレーヌ寺院ではなく、土曜日にトリニテ教会で行われることが分かった。招待状を受け取った人だけが教会に入ることができる」と正しい情報を伝え、イタリアを代表してマミアーニ、ヴァッカーイ、ダンコーネが「葬儀に出席し、ロッシーニの遺体を引き取ってペーザロに運ぶためパリに到着した」と報じた [7]。
以上が葬儀の2日前(11月19日)までのパリの新聞に報じられた主な情報である。18日に開封されたロッシーニの遺言書に基づくさまざまな憶測や報道については省略し、次にミラーノとフィレンツェの新聞からイタリアの反響を略述しておこう。
イタリアにおけるロッシーニの死の反響(11月20日まで)
ロッシーニの死のニュースは11月14日の朝、イタリアの関係者に電報で打電された。これに先立ち各紙がパリの新聞や通信員から情報を得てロッシーニの病状悪化を報じ、その死を予期していた。当時の新聞には各国の通信社から電報で届くニュースを載せるコーナーがあり、14日付ミラーノの新聞『イル・プンゴロ(Il Pungolo)』はパリのイタリア大使コスタンティーノ・ニグラ(Castantino Nigra)が11日と12日に公教育大臣に送ったロッシーニの病状に関する電報を掲載し、12日午後2時18分に打電された重体の報せに続いて同日午後5時の電報──「ロッシーニ訪問から戻りました。最期を危惧します(Torno dal far visita a Rossini ; temo sia l'ultima)」──を転載した[8]。イタリア政府は14日にニグラが公教育大臣に送った電報で巨匠の死を知り、『イル・プンゴロ』は14日午後にパリからロッシーニの死を報せが届いたと15日に報じ、他紙も15日付でこれを速報した。
本格的な追悼記事が掲載された16日付の新聞では、イタリア政府、ペーザロとフィレンツェの市議会が行った決議も報じられ、17日付フィレンツェの新聞『ラ・ナツィオーネ(La Nazione)』はペーザロ市が上院議員マミアーニ伯爵(Terenzio Mamiani, 1799-1885)、作曲家の息子ヴァッカーイ(Giuseppe Vaccay, 1836-1912)らで構成された代表団を派遣してロッシーニの未亡人とフランス政府に巨匠の遺体の返還を求めると決め、フィレンツェ市議会も公教育大臣にロッシーニの亡骸をフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に安置して記念碑を建てるよう提案する決議を採択、イタリア政府もこれを認めたと報じている[9]。同日ミラーノの新聞『ラ・ペルセヴェランツァ(La Perseveranza)』は、ロッシーニの記念碑を建てる資金を集める目的で葬儀コンサートを企画する委員会がミラーノで組織され、公教育大臣もフィレンツェに同様の委員会を設立したと報じた[10]。
18日付『ラ・ナツィオーネ』はイタリア政府がロッシーニの国葬とサンタ・クローチェ聖堂に記念碑を建てるための寄付を募ると決め、ペーザロ市も巨匠の遺体を入手すべく交渉中と報じた[11]。同日付『イル・プンゴロ』はミラーノのカルカノ劇場が記念碑建立の企画に賛同し、19日に《セビーリャの理髪師》を特別公演して収益の半分を記念碑のための募金に寄付すると発表した[12]。そして予告どおりカルカノ劇場が19日に行った上演では、舞台の真ん中に「天才は死なず(Il genio non muore)」の文字と共にロッシーニの胸像が置かれたという。この日ロジーナを演じたヴァンダ・ミュラー(Vanda Müller)が第2幕の歌のレッスンの場で《泥棒かささぎ》ニネッタのカヴァティーナ〈喜びで心が踊っているわ(Di piacer mi balza il cor)〉を歌ったことも批評に書かれている[13]。公演は好評を得て同月29日まで続演され、最終日の歌のレッスンの場ではミュラーがマッティオッツィ(Mattiozzi)作曲の新たなロマンザ《愛のダンス(Danza d'amore)》を紹介し、第 2 幕と第 3 幕の間に《アルジェのイタリア女》の「パッパターチ」の三重唱を挿入すると予告された[14]。ボローニャでは11月19日、サン・ジョヴァンニ・イン・モンテ教会にてアッカデーミア・フィラルモーニカ主催のロッシーニ追悼式典が執り行われた[15]。
サンターガタでロッシーニの死を知ったジュゼッペ・ヴェルディは、ジューリオ・リコルディに宛てた11月17日付の書簡でロッシーニのためのレクイエム・ミサ曲(Messa da Requiem)をイタリア人の作曲家たちで共作する計画を提案した。この手紙は『ミラーノ音楽新聞(Gazzetta Musicale di Milano)』に転載され、その中でメルカダンテを筆頭にイタリアの優れた作曲家で《レクイエム・ミサ曲(Messa da requiem)》を無償で共作し、ロッシーニの命日にボローニャのサン・ペトローニオ教会で演奏してその楽譜を同地の音楽学校に寄贈することが提案されていた。ヴェルディは11月20日付のマッフェーイ夫人宛の手紙に書く──「一人の偉人がこの世から消え去りました! 彼は私たちの時代に最も名声を馳せ、人気があり、そしてイタリアの栄光でした! まだ生きているもう一人(マンゾーニ)がいなくなったら、私たちに何が残るというのでしょう?」[16]
ロッシーニの葬儀前日(11月20日)
ここで話をパリに戻そう。11月20日、正しい情報とともに葬儀のプログラムが新聞に掲載された。その一つ、同日付『ル・ピュブリック(Le Public)』は、ロッシーニの未亡人が夫の葬儀に招待する手紙の文面を交えて次のように報じた。
ロッシーニの葬儀の決定プログラムに、新たな変更がされた。
式典は私たちが発表したとおり土曜日正午に固定されているが、それはトリニテ教会で行われる。マエスト
ロの遺体はマドレーヌ教会からトリニテ教会まで事前に、華美にではなく移送される予定である。
アルボーニとパッティ両夫人が《スタバト・マーテル》の二重唱を歌うといわれている。《スタバト》の歌
詞は、レクイエムの歌詞に置き換えられる。フォールが他の3人の著名なオペラ歌手と共に、モイーズの祈り
と《スタバト》の最初の部分を歌うだろう。今のところ、教会のオルガンの伴奏だけしかない。だが、オペラ
座とイタリア劇場のオーケストラが、この宗教儀式の華麗さに貢献したいと自発的に申し出たといわれる。
以下は、ロッシーニ夫人が夫の葬儀のために送った招待状の本文である。
ジョアッキーモ[ママ。誤植と思われる]=アントニオ・ロッシーニ
学士院会員、レジョン・ドヌール勲章大勲位、聖モーリス・ラザロ勲章大十字勲章、イタリア国王勲章
大十字勲章 等々の葬列と葬儀にご出席ください。
1868年11月13日、76歳でパリ=パシーの自宅で教会の秘跡を受けて亡くなりました。
11 月 21 日土曜日正午ちょうど、トリニテ教会で行われます。
私たちは11時半に教会に集まります。
デ・プロフンディス!(深き淵よりDe Profundis !)
彼の未亡人、ロッシーニ夫人より [17]
同日の新聞『国家の未来(L'Avenir national)』はロッシーニの葬儀では列席者に入場証が必要であると注意を促し、葬儀で歌う歌手の名前と曲目の一部を報じている──
ロッシーニに敬意を表する葬儀は[明日]土曜日の正午ちょうどに、トリニテ教会で執り行われる。— 儀式
のため、教会の入口で入場証を提示する必要がある。
アルボーニ夫人、パッティ夫人、ヴェルジェール、デュプレ、ロジェ、メリック=ラブラーシュ夫人、ガル
ドーニ、そしてパリにいるすべての著名なアーティストが音楽の荘厳な儀式に参加し、そこには次のものが含
まれる。
第一、モーツァルトのレクイエムの楽曲
第二、ロッシーニのミサ曲の楽曲
第三、アーティスト全員が合唱するラテン語の歌詞によるモイーズの祈り
ロッシーニの《スタバト・マーテル》が同じ土曜日の夜、イタリア劇場で演奏される。[18]
同日の新聞『世紀(Le Siècle)』はロッシーニの葬儀への入場証が2千枚配布され、パッティとニルソン夫人がソロを歌うことから入場証の争奪戦が起き、この2日間、会う人ごとに「ロッシーニの葬儀のためのチケットを持っていますか?」と問わぬ人はいなかった。「パリジャンにとってはすべてが祝祭、とりわけ音楽を伴う葬儀はそうだ」と皮肉な意見を述べ、ロッシーニの遺体が化学者ファルコニー氏(M. Falcony)によって防腐処理が施されたと記している[19]。
同日の新聞『ジュルナル・デ・デバ』と『ラ・リベルテ(La Liberté)』は、葬儀での演奏予定曲を「ヨンメッリ《レクイエム》の入祭唱、ロッシーニの〈ディエス・イレ〉、モーツァルトの〈ラクリモーザ〉、編曲されたロッシーニ《スタバト・マーテル》から4曲とし、オルガンとハープのみで歌を伴奏し、音楽院のすべての学生による合唱団の指揮をジュール・コーエンが執り、式典に出席できるよう学生に特別休暇が与えられたと報じた[20]。かくして聖トリニテ教会における葬儀の日を迎えることになる。
11月17日付『ラ・ナツィオーネ』掲載の最新情報/ 『ル・ピュブリック』に掲載された葬儀への招待文/ロッシーニの葬儀への入場証(筆者蔵)
聖トリニテ教会での葬儀(11月21日)
パリ9区、現在のオペラ座からショセ=ダンタン通りを抜けて見渡せる場所にある聖トリニテ[三位一体]教会(L’église de la Sainte-Trinité)は、皇帝ナポレオン3世が第二帝政下のパリ変革の一環に建築させた新たなローマ・カトリックの教区教会で、1861年に工事が始まり、1867年に完成したばかりだった。それゆえ著名な芸術家の葬儀はロッシーニが最初で、ベルリオーズの葬儀は1869年、ビゼーのそれは1875年にここで執り行われる。
1868年11月21日土曜日の正午から執り行われた葬儀の模様は、翌22日の新聞で報じられた。要点を簡潔にまとめた『ル・タン』の報道を見ておこう。 聖トリニテ教会
ロッシーニの葬儀は今日、トリニテ教会で執り行われた。教会の周囲は大勢の群衆で取り囲まれていた。予
告どおり、招待券を持った人だけが入場可能だった。
前線歩兵大隊がレジョン・ドヌール勲章の序列による軍事的栄誉をロッシーニに授けた。
礼拝は正午ちょうどに始まった。身廊全体が男性で占められていた。側廊の小礼拝堂は女性専用だった。教
会の中の混雑を避けるべく、秩序ある措置が完璧に講じられていた。列席者は歌劇場における最初の上演の列
席者でもある。聖歌隊の中に、黒い服を着たイタリアの大臣ニグラ氏と、聖マウリツィオ・エ・ラッザーロ勲
章の大綬が付いた侍従の衣装を着たラフェリエール氏の姿があった。
宗教儀式の間に歌ったアーティストの名前は次のとおり:合唱団が歌ったヨンメッリのレクイエムの入祭唱
の後に、 ディエス・イレの最初の詩節がニルソンとブロッホ両夫人によって歌われた。タンブリーニとガルド
ーニ、フォールの各氏はクイド・スム・ミゼルの詩節を歌った。クラウス、グロッシ、ニコリーニ、アニェー
ジによるピエ・イエズ。そしてアルボーニ、フォール、オバン、デュプレと合唱団によるモイーズの祈り。だ
が、最大の効果はリベル・スクリプトゥスの詩節を歌ったアルボーニとパッティによって生み出された。
オーケストラの不在は惜しまれなかった。全体にこの上なく厳粛だったからである。
稽古と演奏は、パドルー氏の後任として音楽院合奏科の新たな教授になったジュール・コーエン氏の指揮の
下で行われた。
午後2時頃まで続いた宗教儀式の後、行列はショセ=ダンタン通りから大通りを通ってペール・ラシェーズ墓
地に向かった。8台のとても簡素な弔いの馬車が霊柩車に続き、大勢の群衆が沿道にいた。宮廷、省庁、大使
館、高官など、約100台の馬車が葬列に随行した。 [21]
同日付『ガゼット・ナショナル、またはル・モニトゥール・ユニヴェルセル(Gazette nationale ou le Moniteur universel)』の記事「ロッシーニの葬儀」はより詳しく、次のように報じた(改行を変更)。
ロッシーニの葬儀は本日正午、トリニテ教会で執り行われた。午前11時から、芸術、文学、政界の著名人を
含む大勢の人々が教会に詰めかけた。
皇帝[ナポレオン3世]は、彼の第一侍従長ラフェリエール子爵氏を代理として出席させていた。イタリア公
使シュヴァリエ・ニグラ氏と制服を着た彼の外交使節随員、そしてイタリアの議員たちも陛下の侍従長と同じ
側で席に着いていた。
皇帝宮内大臣兼美術大臣ヴァイヨン元帥閣下、同省の事務総長で議員のアルフ・ゴーティエ氏も式典に出席
していた。美術アカデミーからも代表団が派遣された。帝国音楽朗誦音楽院のオペラ関係者、オペラ座、オペ
ラ・コミック座、イタリアの二つの劇場、そしてリリック劇場の芸術家たちが出席した。作曲家劇作家協会は
会長のド・サン=ジョルジュ氏、テイラー男爵、そして会員の全員、文学者協会はエミール・オジエ、フレデ
リック・トマ、エドモンド・アブー、ラクロワの各氏と役員の全員が出席した。
式典に参加すべく召集された声楽家たちは、主祭壇上の回廊に陣取った。ソリストたちは、パッティ、ニル
ソン、アルボーニ、ド・メリックとブロッホの各夫人、フォール、ガルドーニ、タンブリーニ、オバンの各氏
がオルガンの階廊席にいた。
たくさんの蠟燭で光り輝く高いカタファルク(棺を載せる飾り台)には、ロッシーニの亡骸が納められてい
た。その傍らにイタリアの大臣ニグラ、上院議員で美術監督のデ・ニウヴェルケルケ、劇場管理局長カミー
ユ・ドゥセ、音楽朗誦音楽院長オベール、学士院のテイラー男爵、学士院のルベール、そして故人の故郷ペー
ザロの使節団長ダコーナの各氏が出席していた。
12時半、聖職者が遺体の持ち上げ[棺の移動]をさせ、ヨンメッリ《レクイエム》の入祭唱の合唱でミサが
始まった。壮大で厳粛な様式のこの曲はジュール・コーエン氏の指揮のもと、音楽院、オペラ座、イタリア劇
場の芸術家たちによって完璧に演奏された。「怒りの日」の最初の2節はニルソン嬢とブロッホ嬢、ガルドーニ
氏とタンブリーニ氏によって歌われた。奉献唱はアルボーニ夫人とパッティ夫人が大オルガンで二重唱し、
「Liber scriptus」の節の歌詞はロッシーニの《スタバト[・マーテル]》に充てられていた。オペラ座のフォ
ール氏は「Quid sum miser」の節を歌った。続いて音楽院の合唱団が「ラクリモーザ」を歌い、聖体拝領式
ではクラウス夫人、グロッシ氏、ニコリーニ氏、ガルドーニ氏による「Pie Jésu」が大オルガンの伴奏で歌わ
れた。モイーズの祈りは歌詞が「Agnus Dei」に置き換えられ、アルボーニ夫人、パッティ夫人、フォール、
オバン、デュプレの各氏が音楽院の合唱団とハープの伴奏で歌った。最後に、式典の終わりと遺体持ち上げの
前にパリ国民衛兵の楽隊がベートーヴェンの「葬送行進曲」を演奏した。
宗教的な儀式が終わると葬列はショセ=ダンタン通りとブールヴァール大通りを通り、ペール・ラシェーズ
墓地へと向かった。第51戦列歩兵連隊の大隊が儀仗任務に就いた。国民衛兵音楽隊が葬送行進曲を演奏した。
パリのほぼ全住民が護送車列の沿道に並び、死後もフランスの賓客でありたいと望んだこの高名な巨匠に心か
らの敬意を表した。[22]
[以下、ペール・ラシェーズ墓地への到着、カミーユ・ドゥセとアンブロワーズ・トマの弔辞が続くが省略する]
ロッシーニの葬儀で演奏された曲の詳細は、11月22日付『ル・メネストレル』で報じられた[23]。演奏されたのは、次の8曲である。
1 ヨンメッリ《死者のためのミサ曲(Messe des morts)》の入祭唱
2 ロッシーニ《スタバト・マーテル》の音楽による〈Dies irae〉
3 ロッシーニ《スタバト・マーテル》の音楽による〈Liber scriptus〉
4 ロッシーニ《スタバト・マーテル》の音楽による〈Pro Peccatis〉
5 モーツァルト《レクイエム》の〈ラクリモーザ〉
6 ペルゴレージ《スタバト・マーテル》の〈Vidit suum〉
7 ロッシーニ《スタバト・マーテル》の音楽による〈Pie Jésu〉
8 ロッシーニ〈モイーズの祈り〉の音楽による〈Aynus Dei〉
このうちN.1、5、6を除く5曲がロッシーニの原曲どおりでなく、1867年に出版されたアントナン=ジョゼフ・オーラニエ編曲《レクイエム・ミサ曲》の曲であることは、本誌掲載の拙稿「ロッシーニ作品によるパスティッチョ・レクイエム」で明らかにしたのでそれを参照されたい。
伴奏には教会付属の大オルガンが使われ、〈モイーズの祈り〉のみ複数のコントラバスとハープ、内陣のオルガンが使われた。11月23日付『ル・タン』によればパリ音楽院の学生による合唱団は300人で、式典の終わりにパリ国民衛兵の楽隊が演奏した「葬送行進曲」はベートーヴェン《ピアノ・ソナタ》第12番(作品26)の第3楽章「葬送行進曲」の編曲である[24]。
ロッシーニの亡骸を乗せた霊柩馬車は、《泥棒かささぎ》の葬送行進曲、〈モイーズの祈り〉、《スタバト・マーテル》の音楽に伴奏されながらペール・ラシェーズ墓地に移動し、アンブロワーズ・トマらの追悼演説を経て、マリーア・アルボーニの夫でもある貴族ペーポリ家の墓に一時的に安置された。ロッシーニは自分の墓を用意しておらず、現在の霊廟が完成して亡骸が移されたのは翌1869年11月10日である。
葬儀の日の夜、イタリア劇場ではロッシーニの《スタバト・マーテル》が演奏された。23日付『ル・タン』によれば、オペラと同様に大勢の観衆が会場に詰めかけた。ソリストは、クラウス(Gabrielle Krauss, 1842-1906)、グロッシ(Grossi)、ニコリーニ(Nicolini)、アニェージ(Luigi Agnesi, 1833-1875)で、「パッティ以外の歌手たちも合唱団に加わり、かつてこの劇場で活躍したアーティストもこぞって参加し、素晴らしい演奏となった。休憩の後にアーティストたちが月桂冠を手に次々と舞台に現れ、舞台中央に置かれたロッシーニの胸像の周りにこれを置いた。[中略]この感動的な追悼の間、オーケストラは《泥棒かささぎ》の葬送行進曲を演奏し、その後に合唱に伴奏されてクラウスが《オテッロ》のロマンスを《レクイエム》の歌詞にアレンジして歌った」[25]。
以上、ロッシーニの死の翌日から葬儀まで一週間の出来事を、パリとイタリアの新聞報道を基に再構成した。パリでは数多くの日刊紙が発行されているが、記事の取捨選択は筆者の独断で行ったので『シャリヴァリ』のような風刺新聞を無視し、死から葬儀までの出来事を俯瞰すべく心がけたつもりである。これに先立つロッシーニ最後の4年間については、拙稿「ロッシーニ最後の4年間(1865~1868年)」(『ロッシニアーナ』第41号、2021年所収)を日本ロッシーニ協会ホームページに掲載済みである。本誌掲載の「ロッシーニ作品によるパスティッチョ・レクイエム」をお読みいただければ、葬儀で演奏されたヴァージョンに関する知見を得られるはずである。パリで執り行われたロッシーニの葬儀は、その後各国で行われる大規模な追悼演奏会や葬儀式典の幕開きでもあり、これについては後日続編を執筆して明らかにしたい。
【註】
[1] ロッシーニの死の詳細は、日本ロッシーニ協会紀要『ロッシニアーナ』第41号(2021年)掲載の水谷彰良「ロッシーニ最後の4年
間(1865~1868年)」39-40頁を参照されたい。
[2] Journal des débats politiques et littéraires, 14 novembre 1868 (p.2)
[3] この4紙が掲載した訃報については前記、水谷彰良「ロッシーニ最後の4年間(1865~1868年)」40-41頁を参照されたい。
[4] フィレンツェの『ラ・ナツィオーネ(La Nazione)』、トリーノの『ピエモンテ新聞(Gazzetta piemontese)』 が17日付で掲載。
[5] La Patrie, 18 novembre 1868. p.2
[6] La Presse, 18 novembre 1868. p.2
[7] Le Temps, 19 novembre 1868. p.2
[8] Il Pungolo, 18 novembre 1868. p.3
[9] La Nazione, 17 novembre 1868. p.3
[10] La Perseveranza, 17 novembre 1868. p.3
[11] La Nazione, 18 novembre 1868. p.3
[12] Il Pungolo, 18 novembre 1868. p.2
[13] Ibid. 20 novembre 1868. p.3. この記事は歌手名をVada Müllerとし、その後Vanda Müllerに修正。
[14] Ibid. 28 novembre 1868. p.3
[15] a cura di Luigi Verdi, Rossini a Bologna, note documentarie in occasione della mostra ’Rossini a Bologna’, Pàtron Editore,
2000. p.138
[16] Gaetano Cesari e Alessandro Luzio, I copialettere di Giuseppe Verdi, Tip. Stucchi Ceretti & C, Milano, 1913. p.206 (1)
[17] Le Public, 20 novembre 1868. p.2
[18] L'Avenir national, 20 novembre 1868. p. 2
[19] Le Siècle, 20 nov. 1868, p. 2
[20] Journal des débats, 20 novembre 1868. p. 2 / La Liberté, 20 novembre 1868. p.3
[21] Le Temps, 22 novembre 1868. p.2 Ch. Du Bouzet筆
[22] Gazette nationale ou le Moniteur universel, 22 novembre 1868. p.2
[23] Le Ménestrel, 22 novembre 1868 (pp.2-3) pp.410-411
[24] Le Temps, 22 novembre 1868. p.2 《ピアノ・ソナタ》第12番の特定は筆者による(同紙に書かれた調性fa bémolは誤りと判断)。
[25] Ibid, 23 novembre 1868. p.2