ヴェルディ研究(2)ヴェルディ歌手  “黄金時代 の幻想

 

 この頁には「ヴェルディ研究(2)」として、2019年3月8日にヴェルディ・プロジェクト・ジャパンが「ヴェルディ・オペラ全曲シリーズ Vol.2」と題して上演した《マクベス》演奏会形式のプログラムに掲載された拙稿「 “ヴェルディ歌手” と “黄金時代” の幻想」の元原稿を掲載します。「ヴェルディ研究(1)」と「ヴェルディ研究(3)」と共にお読みください。                       (2026年3月31日公開。文責:水谷彰良)

 

 公演の詳細は主催者のサイトをご覧ください → https://www.verdi-project-japan.com/verdi-series28/macbeth/                                  

 

“ヴェルディ歌手” と “黄金時代” の幻想    水谷彰良

 

 「ヴェルディ歌手がいなくなった」とのオペラ・ファンの嘆きは、30年以上も前から聞かれたと記憶する。そうした状況は、21世紀を20年近く経た現在も変わっていない。ここで云われる“ヴェルディ歌手”とは、カラス、テバルディ、デル・モナコ、ディ・ステーファノ、ゴッビ、バスティアニーニ、カップッチッリといった20世紀半ばの“黄金時代”の名歌手を指す。ヴェルディ作品を歌う声を表す「ヴォーチェ・ヴェルディアーナ(voce verdiana)」の語も同じ頃に造語され、これを冠した国際声楽コンクールが開催されてきた。にもかかわらず“黄金時代”の名歌手の後継者と目される歌手は不在で、半世紀前のオペラ・ファンが共有しえた“ヴェルディ歌手”のイメージも曖昧になる一方である。これは1980年代から加速したロッシーニ復興の結果、“ロッシーニ歌手”や“ベルカントの真髄”が明確になったのとは正反対の現象といって良い。

 なぜそんな不可思議な現象が起きたのか、そもそも“ヴェルディ歌手”や“黄金時代”が存在したのか、駆け足で検証してみよう。[註1]

 

 〇〇歌手の呼称は後世の貼るレッテルにすぎない、と誰もが考える。だが、“ロッシーニ歌手” だけは歴史的な概念として存在した。ロッシーニは時代最高の歌手の技巧を前提に、個々の歌手の能力を最大限に発揮させる独自の様式を確立したからである。それを可能にしたのが、早熟な才能の開花である。20~21歳で初演した《試金石》《タンクレーディ》《アルジェのイタリア女》で脚光を浴びた彼は、23歳の若さでナポリの王立劇場の音楽監督兼作曲家に就任すると、ソプラノ/メッゾソプラノのイザベッラ・コルブラン、バリテノーレのアンドレーア・ノッツァーリ、テノーレ・コントラルティーノのジョヴァンニ・ダヴィド[ダヴィデ]といった時代最高の歌手を得て、超絶華麗な歌唱を基盤とする様式を確立することができたのだ。そして続くパリ時代にソプラノのロール・サンティ=ダモローとテノールのアドルフ・ヌリを得てフランス・オペラを刷新し、1829年の《ギヨーム・テル》をもって筆を折る。ヨーロッパ最高の演奏水準を誇るパリのイタリア劇場では、1819年から30年までの11年間に約1550回の上演が行われたが、うち6割強がロッシーニの作品だった(18のオペラが合計988回上演された)。これはロンドンやウィーンも同様で、オペラ歌手はロッシーニ作品のために高度な歌唱技術を身につけなければならなかったから、メソッドの開発と周到な教育がなされ、パスタとマリブランに至る偉大な歌手の流派が形成されたのである。19世紀の著名な歌手がみな “ロッシーニ歌手” であることから、20世紀後半に始まるベルカント復興は “ロッシーニ歌手” の再生でもあった。

 これに対し、ロマン主義の台頭で作劇と歌唱に対する趣味が激変した時代に、ベルカントに代わる新たな歌手の流派が形成された。きっかけは、1837年にパリ・オペラ座の《ギヨーム・テル》再演でテノールのジルベール・デュプレ(1806-1896)が「ド・ディ・ペット(胸声のハイC)」を放ってセンセーションを巻き起こしたことにあった。テノーレ・ディ・フォルツァ(力強いテノール)の出現でテノーレ・ディ・グラツィア(優美なテノール)の価値が失墜し、女性歌手にもドラマティックな発声への転換が促され、オペラの発声歌唱に大きな変化が生じたのである。その過渡期には、喉を壊す歌手が相次いだ。デュプレ自身も絶頂期は短く、マイアベーア作品で一世を風靡したフランス初のドラマティック・ソプラノ、コルネリ・ファルコン(1812-1897)もデビューから6年で声を失ったのだ。

 ドラマティックな歌唱への移行は、歌手の名人芸に依拠するベルカント・オペラからドラマを重視する作劇に転じた作曲家や観客の趣味の変化によっても「必然」というべき現象であり、その流れの上にヴェリズモが現われたことは周知であろう。けれども20世紀半ばまでのオペラ・ファンにとっての「進化」は、異なる美意識と歴史観を持つ者にとっては「暗黒時代の始まり」でもあった。ロッシーニは1844年にイタリアの観客が「良い歌唱法を評価できず、叫ぶ歌手を称賛する」ことを憂い、翌45年には「いまでは誰が最高の歌を歌うのかではなく、誰が一番叫ぶかなのです。数年後には、イタリア全土にたった一つの[良い]声さえ残っていないでしょう」と予言したのだ。[註2]

 こうした見解を、時代に取り残されたベルカント作曲家の繰り言と軽んじてはいけない。長い歴史のスパンで考えれば、「力み、叫ぶ」歌唱の流行は一時的な錯誤と理解しうるからだ。《ナブコドノゾル》(1842年)のアビガイッレに前例のない強い声と激烈な歌唱を求めたヴェルディもまた、自分の音楽とドラマの理想を追求するあまり、そうした歌唱の流行に一役かっていた。とはいえ歌手に「歌われるのではなく、演技し、暗くこもった声の朗唱」を求めた《マクベス》(1847年)は、演劇的リアリズムへの偉大な一歩を刻印する名作であり、ロマン主義がもたらす「進化」の象徴である。その一方、ベルカントの作曲家でないヴェルディの作品には、明らかに過度な声の用法だけでなく、ぎこちないパッセージで歌手に無理を強いる事例も少なからずある。「そこが素晴らしい」「ヴェリズモを先取りしている」と称えるのは後世の自由だが、声楽的見地でかなり問題のある作曲家であることは間違いない。ヴェルディが生前、喉を疲弊させる音楽で歌手と歌唱を駄目にした「声のアッティラ[虐殺者]」と非難されたことも覚えておこう。

 ヴェルディの初演歌手が誰一人、後世の模範や理想とされない事実にも留意する必要がある。歌手に不満を持ち、初演失敗の原因を歌手に帰すような発言を繰り返したからなおさらだ。《エルナーニ》(1844年)エルヴィーラを創唱したゾフィー・レーヴェ(1815-1866)のことを「これ以上音を外すのは不可能なほどひどく歌った」と嘆き、調子を崩していたエルナーニ役のカルロ・グアスコ(1813-1876)についても「声が無く、驚くほどかすれ声のテノール」と記したのがその一例だ。どちらも情熱的な歌唱で評価され、2年後には同じフェニーチェ劇場で《アッティラ》を初演したが、短いキャリアで終わっている(グアスコは40歳で引退を余儀なくされ、レーヴェは33歳で結婚引退)。ストレッポーニに続くアビガイッレ歌手として《ナブコドノゾル》の再演で圧倒的成功を収め、《レニャーノの戦い》(1849年)リーダを創唱したテレーザ・デ・ジューリ=ボルシ(1817-1877)のように、初期のヴェルディが理想としたドラマティックなアジリタを具えた歌手も存在したが、今日その名前とレパートリーを知る人はいないだろう。

 人気歌手のイェニー・リントやタドリーニ夫人も起用されたが、どちらも1作の初演に係わっただけで、ヴェルディ作品によって後世に名を残したわけではない。《第一次十字軍のロンバルディーア人》(1843年)ジゼルダと《ジョヴァンナ・ダルコ》(1845年)タイトルロールを創唱したエルミーニア・フレッツォリーニ(1818-1884)は例外的にヴェルディ作品でキャリアを重ね、40歳台の前半に舞台を退いた後もコンサート歌手として1874年まで活動したが、演奏を聴いたロッシーニは、「不幸にして声がダメになった者の見本で、今日の叫ぶ歌手が収める成功にとどまるでしょう」「私が若い頃なら、合唱団で歌うことしか許されなかっただろうね」と酷評している。[註3]

 だが、「力み、叫ぶ」歌唱の流行はその後も続き、19世紀後半には歌手の凋落がいっそう深刻になっていた。声楽教師パノフカが「ヴェルディのオペラを歌うには美しく力強い声があればいいと信じる若者たちが、歌を半年学んだだけでデビューしようとする」と嘆いたのは1866年、ヴェルディ自身も柔軟な喉を持たぬ者が充分な訓練なしに歌う風潮を憂い、「私が歌手に望むこと:音楽の広範な知識、発声練習、過去と同様の長期に及ぶ歌の練習曲の学習、明瞭で完璧な発音での発声と言葉の練習」と述べたのだ[註4]。ヴェルディの後期作品で活躍したテレーザ・ストルツ[シュトルツ](1834-1902)のように素晴らしいソプラノは現れても、テノールは壊滅的だった。輝かしい高音と力強い歌唱で一世を風靡した《オテッロ》(1887年)の初演歌手フランチェスコ・タマーニョ(1850-1905)についてもヴェルディは、「彼は常に声を張り上げてしか歌えません。そうしないと響きが悪くなり、音程も不確かなものになってしまうのです」と述べている(ジューリオ・リコルディ宛の手紙、1886年)。ヴェリズモがブームになり始めた1892年には、「我々の歌手たちは概して大声で歌うことしか知りません。彼らは声の柔軟性を持ち合わせていないのです」と嘆いた(同前宛)

 このように見ていくと、ヴェルディの時代には後世が目標や理想としうる “ヴェルディ歌手” もその流派も存在しなかったことが分かる。それだけではない、スカラ座など大劇場の上演記録を調べれば、ヴェルディ作品の人気が1860年代にピークを迎え、1871年の《ローエングリン》イタリア初演を境にヴァーグナー作品がこれに取って代わり、世紀末にヴェリズモとプッチーニ作品が加わったことが分かる。19世紀末から20世紀初頭に《リゴレット》《イル・トロヴァトーレ》《ラ・トラヴィアータ》《アイーダ》《オテロ》を歌ったのはイタリア人のヴァーグナー歌手やヴェリズモ歌手なのである。彼らはより激しい感情表出のデクラメーションに移行し、中声域に比重を置く発声法、豊麗な響きと官能的声質を獲得して新たな流派を形成したが、押しの強い歌い方、叫び声もしくは大声、アクセントを極端に強調するディクション、衝動的なテンポの揺らぎ、ブレス多用による旋律の切断、さらには様式感の欠如といった悪弊をも蔓延させてしまった。その系譜に連なるのが20世紀半ばの “黄金時代” であるなら、ヴェルディの理想から最も遠ざかったと言っても間違いではないだろう。そのことは、歌手と指揮者が楽譜と作品に独善的解釈を持ち込み、原譜にない高音と悪趣味なカデンツァを付加し、劇を損ねるカットや管弦楽パートの改竄を施したことからも明らかである。

 にもかかわらず、指揮者、歌手、評論家たちは、この「不都合な真実」を隠蔽し続けてきた。それゆえクリティカル・エディションの出現でヴェルディのオリジナルが明らかになっても、指揮者と歌手の多くはそれに背を向け、自分たちこそが伝統の真正な継承者と自負している。バロック音楽とベルカントの復興で歴史様式が見直され、楽譜と作品の正しい解釈、演奏の正確さやオリジナルの尊重が求められる現在もなお、ヴェルディに関して出口のない状況が続いている理由もそこにある。

 そんななか、クリティカル・エディションを用いてヴェルディの全オペラの演奏に挑もうとする一人の指揮者が現われた。苫米地英一氏である。筆者がこの件で最初に相談されたのは2年前。実際に会って話を聞き、「無謀すぎる」「この問題の理解者は日本にいないに等しい」「失敗すれば命取りだ」と言って翻意を促したが、彼の固い決意に打たれて協力を約束すると共に、「外国から歌手を一人呼び、日本側も一流歌手でないとダメ」「友だちや仲間うちでやるのはもってのほか」と釘を刺し、日本ヴェルディ協会の小畑恒夫氏に橋渡しした経緯がある。その後、筆者はプログラムへの寄稿を除いて何の関与もしていないが、第1回の《リゴレット》を聴き、ヴェルディのフレーシングどおりに歌われた「女心の歌」の端正で美しい歌唱に感服し、粗削りなオーケストラからも斬新な響きとヴェルディの息吹を聴き取ることができた。その意味でもヴェルディのコンセプトの正しい再現こそが新たな解釈と演奏の刷新に繋がることが、見事に証明されたと思う。その意義が日本で評価されるには時間を要するだろうが、本日の《マクベス》を含めて彼らが一致協力して理想を追求し続ければ、わが国のヴェルディ演奏史に大きな足跡を残すに違いない。                                       

 

 

 註1 ヴェルディ作品の演奏解釈に関する筆者の見解の全容は、日本ロッシーニ協会ホームページ掲載の二つの論文を参照されたい。

     ヴェルディ作品の演奏解釈とその歴史性──作品、形式、歌唱の歴史的な同時代性と演奏実践の課題 

     ヴェルディ歌唱と演奏スタイルの変遷──続・ヴェルディ作品の演奏解釈とその歴史性 

 註2 エスキュディエによるロッシーニ訪問記、1845年。この時ロッシーニが引き合いに出して絶賛したテノールが、《ランスへの

     旅》騎士ベルフィオールや《ノルマ》ポッリオーネを創唱したドメーニコ・ドンゼッリ(1790-1873)である。

 註3 バス歌手チェーザレ・バディアーリ宛の手紙、1864年7月15日付。

 註4 ジュゼッペ・ピローリ宛の手紙、1871年2月20日付。

 (みずたに あきら 音楽・オペラ研究家)