ロッシーニについて(年譜とプロフィール)

 

ロッシーニの略歴

ジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Rossini,1792-1868) ── 1792年2月29日イタリアのペーザロ生。ボローニャでプリネッティに師事し、12歳[註]で早熟な才能を現す6曲の弦楽ソナタを作曲。ボローニャの音楽学校在学中の1810年、ヴェネツィアでデビュー作《結婚手形》を発表して認められ、1幕のファルサ《絹のはしご》《なりゆき泥棒》《ブルスキーノ氏》により喜劇的天分を開花させた。オペラ・ブッファは《試金石》(1812年)と《アルジェのイタリア女》(1813年)が出世作となり、ほどなく《セビーリャの理髪師》(1816年)と《ラ・チェネレントラ》(1817年)の傑作を生み、オペラ・セーリアのジャンルでは《タンクレーディ》(1813年)が最初の成功作となる。1815年にナポリの王立劇場音楽監督に就任し、華麗で技巧的な歌唱を駆使する力強い作風に転じ、定型的序曲やレチタティーヴォ・セッコの廃止、悲劇的フィナーレ採用などの改革を行なう。  

1822年2月まで7年間続いたナポリ時代の代表作は《オテッロ》(1816年)、《エジプトのモゼ》(1818年)、《湖の女》(1819年)で、ヴェネツィア初演の《セミラーミデ》(1823年)を最後にイタリアでの活動を終えた。1824年のパリ定住後はフランス語のオペラを連作し、ロマン派歌劇の先駆けをなす《ギヨーム・テル》(1829年)を最後に37歳の若さでオペラの筆を折る。その後非公開の約束で《スタバト・マーテル》(1832/41年)を作曲、歌曲・重唱曲集《音楽の夜会》(1835年)を出版したが、フランス政府の終身年金を得ると帰国して引退生活に入った。1855年には再度パリに移住して創作意欲がよみがえり、私的演奏の目的で150曲にのぼるピアノ曲と声楽曲、《小ミサ・ソレムニス(小荘厳ミサ曲)》を作曲した。1868年11月13日パリ近郊パシーにて没。歌唱技巧を極限にまで開花させたロッシーニのベルカント様式は20世紀後半に見直され、全39作のオペラ再上演も達成されている。     

 註:近年の研究で16歳に修正された。        (『音楽小辞典』音楽之友社、項目「ロッシーニ」水谷彰良・筆を改稿)

 

オペラ作曲家ロッシーニ

 ジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Rossini,1792-1868)は、モーツァルトの没した2か月半後にアドリア海に面したペーザロに生まれ、14歳でボローニャのリチェーオ・フィラルモーニコ(音楽学校)に入学し、18歳で最初のオペラを作曲した。37歳の若さでオペラの筆を折った後も76歳で亡くなるまで作曲を続けたので息の長い音楽家といえるが、《セミラーミデ》までの34作がベートーヴェンの交響曲第6番と第9番の間に書かれたことでも判るように、オペラ作曲家としては後期古典派に属する。 その歩みは、ヴェネツィアのサン・モイゼ劇場初演のファルサ《結婚手形 La cambiale di matrimonio》(1810年)に始まる。同劇場では続く2年半にファルサ《幸せな間違い L’inganno felice》《絹のはしご La scala di seta》《なりゆき泥棒 L’occasione fa il ladro》(共に1812年)、《ブルスキーノ氏 Il signor Bruschino》(1813年)を発表し、その間ミラーノのスカラ座で初演したオペラ・ブッファ《試金石 La pietra del paragone》(1812年)が大成功を収め、一躍脚光を浴びた。四期に区分される創作の第一期がここで終わる。

 

 続く《タンクレーディ Tancredi》と《アルジェのイタリア女 L’italiana in Algeri》(共にヴェネツィア、1813年)が、セーリアとブッファ両ジャンルにおける最初の名作となった。《タンクレーディ》は気品のある抒情的ドラマで、結末はヴォルテールの原作と異なるハッピーエンドに変えられたが、ほどなくタンクレーディの死で終わる悲劇的フィナーレ改作を行った(フェッラーラ版。現在は改作版の上演が主流)。《アルジェのイタリア女》は抱腹絶倒のナンセンス喜劇で、第1幕フィナーレの狂騒的ストレッタ、第2幕の〈パッパターチ!Pappataci!〉に喜劇的天分の開花がみられる。台本は同題のモスカ作品からの借用であるが、ロッシーニの奇想天外な音楽は後世の研究者をして「音楽のシュルレアリスム」と言わしめた。どちらも主役を女性コントラルトが務め(タンクレーディは男装役)、低声女性歌手を好むロッシーニはその後もこの声種に主役や準主役を与えた。次作《パルミラのアウレリアーノ Aureliano in Palmira》(1813年)では例外的にカストラートが起用され、続く《イタリアのトルコ人 Il turco in Italia》(ミラーノ、1814年)と《シジスモンド Sigismondo》(ヴェネツィア、1814年)をもって第二期を終える。

 

 1815年2月のナポレオンのエルバ島脱出をきっかけに、ヨーロッパは一時的な騒乱状態に陥ったが(ナポレオンの百日天下)、ほどなく王政復古が確定した。同年ロッシーニはナポリの王立劇場支配人ドメーニコ・バルバーイアの求めでナポリに活動拠点を移し、第三期の活動が始まった。サン・カルロ劇場の卓越した歌手(コルブラン、ガルシア、ノッツァーリなど)を得たロッシーニは、《イングランド女王エリザベッタ Elisabetta, regina d’Inghilterra》(1815年)でナポリにデビューしてオペラ・セーリア改革に着手し、シェイクスピアを原作とする《オテッロ Otello》(1816年)では舞台上のヒロイン殺害とオテッロの自害を写実的に描き、後の作曲家に大きな影響を与えた。古典的題材の《アルミーダ Armida》(1817年)ではバレエを取り入れながらも「ドイツ的すぎる」と批判され、旧約聖書に基づく《エジプトのモゼ Mosè in Egitto》(1818年)では独立した序曲を廃して合唱を多用した。《リッチャルドとゾライデ Ricciardo e Zoraide》(1818年)では舞台上のバンダを初めて用い、ラシーヌの悲劇『アンドロマック Androma-que』(1667年)を原作とする《エルミオーネ Ermione》(1819年)にヒロインの大シェーナを導入して狂乱オペラの先駆けとなった。こうした劇作上の改革には同時代文学との接点も不可欠で、ウォルター・スコットの物語詩を原作とする《湖の女 La donna del lago》(1819年)がロマンティック・オペラの原点となった。一連の改革を集約したのが《マオメット2世 Maometto secondo》(1820年)で、新たにヒロインの自害による悲劇的フィナーレを採用するとともに、大規模な楽曲に音楽を集約する手法を大胆に取り入れた。《マオメット2世》はドラマと音楽の連続性において《オテッロ》や《エルミオーネ》を凌いだが、その革新的作劇が聴衆に理解されず、ロッシーニは《ゼルミーラ Zelmira》(1822年)を最後にナポリを去ることになる。

 

 オペラ・ブッファの傑作もこの第三期に作られた。庶民的活力あふれるフィガロを登場させた《セビーリャの理髪師 Il barbiere di Siviglia》(ローマ、1816年。初演時の題名は《アルマヴィーヴァ、または無益な用心 Almaviva, o sia L’inutile precauzione》)と、シンデレラ物語からおとぎ話の要素を排除して抒情的要素を加味した《ラ・チェネレントラ La Cenerentola》(同、1817年)がそれである。純粋なオペラ・ブッファはこの二作で終わり、《泥棒かささぎ La gazza ladra》(ミラーノ、1817年)と《マティルデ[・ディ]・シャブラン、または美貌と鉄の心 Matilde(di)Shabran, ossia Bellezza e cuor di ferro》(ローマ、1821年)でオペラ・セミセーリアに転じた。最後のオペラ・セーリア《セミラーミデ Semiramide》(ヴェネツィア、1823年)はこのジャンルの「白鳥の歌」にふさわしい名作で、ベルカントの声楽様式と古典的造形美の極致というべき完成度をもつ。これをもってイタリアでの活動は終わりを告げ、パリにおける第四期が始まる。当時パリではイタリア・オペラを専門に上演する王立イタリア劇場 (Théâtre Royale Italien)が活発に活動し、1819年から30年までの11年間に約1550回の公演を行ない、うちロッシーニ作品が6割を超える988回を占めていた(数の多い順に、《セビーリャの理髪師》156、《オテッロ》128、《泥棒かささぎ》126、《ラ・チェネレントラ》103、《タンクレーディ》95、《セミラーミデ》73回。モーツァルト作品で最多の《ドン・ジョヴァンニ》は66回)

 

 フランス政府の要請で王立イタリア劇場の音楽舞台監督に就任したロッシーニは、国王シャルル10世の戴冠を祝う《ランスへの旅、または金の百合亭 Il viaggio a Reims, ossia L’albergo del giglio d’oro》(パリ、1825年)を初演した。翌1826年、「王の作曲家にして声楽総視学官」に任命されてフランス語のオペラを求められると、旧作《マオメット2世》のフランス語改作《コリントスの包囲 Le siège de Corinthe》(1826年)、《エジプトのモゼ》のフランス語改作《モイーズ Moïse》(1827年。初演時の題名は《モイーズとファラオン、または紅海横断 Moïse et Pharaon, ou Le passage de la Mer Rouge)》)、喜歌劇《オリー伯爵 Le comte Ory》(1828年。《ランスへの旅》からの転用を含む)をオペラ座で初演し、大成功を収めた。最後の歌劇《ギヨーム・テル Guillaume Tell》(1829年)は自由を希求する民衆の闘いを壮大なスケールで描き、ロッシーニの創作の集大成であるとともに、ロマン主義的グラントペラの幕開けを告げる記念碑的作品となった。

 

 イタリア・オペラの古典的劇形式、ファルサ、オペラ・ブッファ、オペラ・セミセーリア、オペラ・セーリアの表現可能性はロッシーニによって汲み尽され、高度な声楽技巧に基礎を置く装飾歌唱の様式も極限にまで発展させられた。ロッシーニはドイツ古典派の重厚な管弦楽法と大胆な和声法を独自に摂取し、ロマン主義歌劇の基礎を打ち立て、フランス・オペラの声楽様式にも決定的な影響を与えたが、そうした功績はいったん忘れられ、批判校訂版による全集の刊行(1979年開始)とペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルによる系統的上演(1980年開始)を通じて完全復権を果たしている。

(水谷彰良『新イタリア・オペラ史』音楽之友社、2015年。第7章より改稿して掲載)