特設:サリエーリ生誕270年を記念して

 

NEWS

 

11月27日(金) 21:00~NHKのEテレ「ららら♪クラシック」に、サリエリ/サリエーリが登場します!

音食紀行の遠藤雅司さんと筆者も関与した30分の音楽番組。12月には再放送も予定されます。

 

サリエーリの演奏会、イヴェント、講演会などを随時アップします。お問い合わせから情報をお寄せください。

 

 

 

イントロダクション

 

サリエーリ生誕270年を記念し、サリエリストとロッシーニファンのための特設ページを併設しますコンテンツは随時増やしていきますので、お楽しみに!(2020年10月15日開設。水谷彰良)

  

FGOのサリエリから史実の作曲家サリエーリへ

2018年春、スマートフォンのゲームFGO(フェイト/グランドオーダー)にアヴェンジャー(復讐者)のキャラクターとして登場し、一躍脚光を浴びたサリエリ。これがきっかけで史実の作曲家サリエーリへの関心が高まり、絶版書『サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長』(音楽之友社、2004年)に復刊リクエストが殺到、同年8月にはクラシックに特化した音楽配信ナクソス・ジャパンの肝いりで「音楽家アントニオ・サリエリ」と題したトークライヴが行われました。翌2019年には前記書の増補改訂版『サリエーリ 生涯と作品』(復刊ドットコム)が出版され、さまざまなイヴェントの開催によりサリエリ/サリエーリがマスコミにも注目されました。でもサリエーリとの出会いは始まったばかり。生誕270年を記念して特設する当サイトも、発見の旅への入口の一つです。

 

左から「2019年2月3日 サリエリナハトフェスト」「読売新聞 2019年7月5日夕刊 (関西版)」「日経トレンディ 2020年1月号」。詳しくは日経クロストレンド~『Fate/Grand Order』経済圏 第3回 『FGO』驚異の経済効果 18世紀音楽家「サリエリ」が奇跡の復権 をご覧ください。 

 

 

知るサリエーリ

 

Q&A:Salieri のカナ書きと発音はサリエリ、それともサリエーリ?

 

日本ではしばしば「サリエリ」と書かれ、頭の「サ」にアクセントを置いて「サリエリ」と言われますがそれは英語に起因した発音で、イタリア人であることから研究文献は「サリエーリ」とします。ちなみにサリエーリが生活したヴィーンやドイツ語圏では頭のSaが「ザ」と濁り「ザリエリ」となりますが、音楽関係者はイタリア式に「サリエーリ」と発音しています。

日本では戦後アメリカの占領下に英語の発音のカタカナへの置き換えが一般化し、マスコミも「サリエリ」を採用しました。映画『アマデウス』英語版の発音も「サリエリ」ですが、日本語で演じる芝居『アマデウス』では「サリエーリ」と発音され、海老沢敏先生や私の文章も「サリエーリ」です(出版社の編集で「サリエリ」とされることもしばしばですが…)。マスコミとFGOは「サリエリ」、史実の作曲家は「サリエーリ」、その区別は今後も続くでしょう。(水谷彰良)

 

サリエーリの略歴

 

1750年8月18日、北イタリアのレニャーゴで富裕な商人の息子として生まれたアントーニオ・サリエーリ(Antonio Salieri,1750-1825)は、ヴァイオリンとオルガンを学び、14歳で孤児になるとヴェネツィア貴族に引き取られた。宮廷作曲家ガスマンの弟子として神聖ローマ帝国の首都ヴィーンに移ったのは16歳の誕生日の2カ月前。利発な少年はヨーゼフ2世に気に入られ、メタスタージオとグルックから周到な教育を施される。そして最初のオペラ《女文士たち》を19歳で作曲、《アルミーダ》(1771年)と《ヴェネツィアの市》(1772年)が大成功を収めると、1774年2月の師ガスマンの死を受け23歳の若さでヴィーン宮廷室内作曲家兼イタリア・オペラ指揮者に任命された。

前年ヴィーンに来て就職活動に失敗したモーツァルトはサリエーリを敵視したが、宮廷音楽と歌劇場、音楽家協会の仕事で多忙なサリエーリがザルツブルク大司教に仕える6歳年下の若者をライヴァル視した形跡はない。1778年にはミラーノのスカラ座開場オペラ《見出されたエウローパ》を作曲、ヴェネツィア初演《やきもち焼きの学校》の大ヒットでその名はイタリア全土に轟いた。その後グルックの後継者としてフランスに招かれ、パリ・オペラ座初演《ダナオスの娘たち》(1784年)が好評を博し、ボーマルシェ台本《タラール》(1787年)の熱狂的成功によりヨーゼフ2世からヴィーン宮廷楽長に迎えられる。副楽長にはジングシュピール《坑夫》《鬼火》の作曲家ウムラウフが選ばれた。モーツァルトも《フィガロの結婚》で成功を得ていたが、キャリアに照らせばサリエーリの楽長就任は当然の措置と言える。ヨーゼフ2世の後継者レーオポルト2世もサリエーリとウムラウフを留任させ、モーツァルトによる副楽長への請願を認めなかった。

出世の道を閉ざされたモーツァルトに手を差し伸べたのがサリエーリだった。演奏会でモーツァルト作品を取り上げ、レーオポルト2世のボヘミア王戴冠を祝う《ティートの慈悲》の作曲を譲り、祝賀行事でモーツァルトのミサ曲を指揮したのだ。モーツァルトが《魔笛》に招待したサリエーリから受けた賛辞を妻コンスタンツェに書き送った最晩年の手紙も、両者の良好な関係の証左となる。サリエーリはモーツァルトの死後も宮廷楽長の職務に励むかたわら、新たに11のオペラを作曲した。1815年にフランス宮廷からレジョン・ドヌール勲章を授与され、翌年ヴィーン生活50周年を祝して黄金の市民功労メダルも贈られた。シューベルトやベートーヴェンの師でもあるサリエーリは、音楽家協会の演奏会でハイドンのオラトリオ《天地創造》と《四季》、ベートーヴェンの交響曲第7番と《オリーヴ山上のキリスト》を指揮した。モーツァルト毒殺疑惑に晩節を汚されなければ、ヴィーン音楽界の父と呼ばれるのにふさわしい、傑出した人物だったのである。

(モーツァルトとの関係を含む略歴。『モーストリー・クラシック』2018年8月号の拙稿を改稿)

 

 

ヨーゼフ2世時代のヴィーン(ガスマンとサリエーリ)

 

ドイツ皇帝ヨーゼフ2世(在位1765-1790)が母マリーア・テレジアと共同統治を開始した1765年以降、ヴィーンはイタリア・オペラの新たな拠点となっていた。この地でグルックと並ぶ評価を得たのが宮廷作曲家ガスマンとその後継者サリエーリである。

フローリアン・レーオポルト・ガスマン(Florian Leopold Gaßmann [Gassmann], 1729-1774)は、ボヘミアのブリュクスに生まれ、ボローニャでマルティーニ神父(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニGiovanni Battista Martini,1706-1784)に師事し、最初の歌劇《メーロペ Merope》を1757年にヴェネツィアで初演した。63年にはヴィーンでグルックの後任バレエ作曲家となり、《オリンピーアデ L’olimpiade》(1764年) の初演で成功を収め、1772年に宮廷楽長となった。ガスマンは1766年から亡くなるまでの8年間にヴィーンで11のオペラを初演し、重要作品に喜歌劇《滑稽な旅人 Il viaggiatore ridicolo》(1766年) 《職人の恋 L’amore artigiano》(1767年) 《オペラ・セーリア Opera seria》(1769年) 《伯爵令嬢 La contessina》(1770年) がある。オペラ・セーリアの稽古と上演を風刺した《オペラ・セーリア》は1994年に蘇演され、優れた喜歌劇(コンメーディア・ペル・ムジカ)と認められた。

ガスマンの後継者となるアントーニオ・サリエーリ(Antonio Salieri,1750-1825)は北イタリアのレニャーゴで生まれ、少年期に両親を亡くし、ガスマンに才能を見出されてその弟子としてヴィーンに渡った。グルックやメタスタージオの教えも受け、19歳で最初の歌劇《女文士たち Le donne letterate》(1770年) を手がけ、グルックの影響下に作曲した《アルミーダ Armida》(1771年) で最初の成功を得た。その後ヨーゼフ2世が「オペラ・セーリアは退屈なので不要」としたため、《見出されたエウローパ Europa riconosciuta》(1778年) はミラーノ、《セミラーミデ Semiramide》(1782年) はミュンヒェン、《カプアのアンニーバレ Annibale in Capua》(1801年) はトリエステの劇場の求めで作曲した。ミラーノのスカラ座開場作品《見出されたエウローパ》ではダ・カーポ付きアリアを減らして多彩な形式を用い、アリアやアンサンブルに高度な歌唱技巧を求めている。グルックの後継者としてパリ・オペラ座からも新作を求められ、トラジェディ・リリック《ダナオスの娘たち Les Danaïdes》(1784年) 《オラース家 Les Horaces》(1786年) 《タラール Tarare》(1787年) を作曲した。なかでもボーマルシェ台本の《タラール》は成功を収め、1826年までオペラ座のレパートリーに残った。

喜歌劇のジャンルでは、《ヴェネツィアの市 La fiera di Venezia》(ヴィーン、1772年) がデンマークやロシアを含む全ヨーロッパで上演され、人気を博した。初期の秀作に《奪われた手桶 La secchia rapita》(ヴィーン 1772年) 《宿屋の女主人 La locandiera》(同 1773年) 《やきもち焼きの学校 La scuola de’ gelosi》(ヴェネツィア 1778年)、中期の秀作に《トロフォーニオの洞窟 La grotta di Trofonio》(ヴィーン 1785年) 《はじめに音楽、次に言葉 Prima la musica e poi le parole》(同 1786年) 《オルムスの王アクスール Axur, re d’Ormus》(同 1788年。《タラール》のイタリア語改作版) がある。《トロフォーニオの洞窟》と《はじめに音楽、次に言葉》の台本作家ジョヴァンニ・バッティスタ・カスティ(Giovanni Battista Casti,1724-1803)は、ダ・ポンテを凌ぐ文学性と風刺の才能に恵まれた詩人であった。

1788年に37歳でヴィーン宮廷楽長となったサリエーリは、モーツァルトの没後もオペラ作曲家として名声を保持し、後期の秀作に《ファルスタッフ、または三つの悪ふざけ Falstaff, ossia Le tre burle》(ヴィーン 1799年) がある。シェイクスピアの喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』を原作とするこのオペラは優美さと生気に満ち、言葉のリズムと抑揚を旋律と朗誦に一致させるサリエーリ喜歌劇の頂点をなすものといえる。モーツァルト毒殺疑惑で晩節を汚されたため後世の再評価が遅れたが、現在は真価が見直されている。

一都市におけるオペラ作曲家の評価や人気の指標となるのが上演回数である。ここで1781年から91年まで11年間の、ヴィーンのそれを見てみよう[別表参照]。第1位はパイジエッロ、サリエーリは第2位、サルティは第6位、モーツァルトは第7位、グルックは第10位である。

                   (水谷彰良『新 イタリア・オペラ史』音楽之友社より一部表記変更)

ヴィーンにおけるオペラ上演

178191

作曲家

上演回数

パイジエッロ

294

サリエーリ

185

マルティン・イ・ソレール

141

チマローザ

124

グリエルミ

112

サルティ

108

モーツァルト

105

グレトリ

100

ディッタースドルフ 

72

グルック

70

ウムラウフ

70

アンフォッシ

56

  

サリエーリはどんな人?

 

サリエーリは長身ではなく、むしろ小柄な背丈をし、太っても痩せてもいなかった。肌の色は褐色で、生き生きとした眼をし、黒髪だった。気性は短気で、些細なことで腹をたてたが、すぐに反省の心が怒りを抑えつけた。秩序と清潔を愛し、度が過ぎぬ程度に流行に沿った服装をしていた。遊び事にはまるで関心がなく、水しか飲まなかったが、甘いものは大好きだった。お気に入りの娯楽は読書、音楽、独りでする散歩だった。彼は忘恩を嫌悪し、義務の中で最も好ましいものは感謝の念であると考えた。できるかぎり善行を施し、財布は常に貧しい者たちのために開かれていた。彼はとても話し上手で、とりわけ自分の芸術に係わる話題に饒舌で、この分野の話は尽きることがなかった。怠惰を憎み、不敬虔を嫌っていた。議論の中で過ちがあれば進んで告白し、自分が正しいときも平和を愛するがゆえに自分に非があるふりをして、議論が自分と第三者の名誉を傷つけぬようにした。[中略]

ときおり彼は説明しがたい憂鬱に襲われ、わけも言わず泣き出すことがあった。そんなとき彼の心には、死の想念が湧いていたのだ。だが、死を恐れていたのではない。丘の頂上で色彩豊かな木々の森を眼にしたときなど、あの木々の下に埋葬されたいとの願いが彼の心に湧き上がっていたのである。それ以上に彼は、しばしば陽気で快活だった。その親切さ、機嫌の良さ、機知に富み相手を傷つけることのない冗談により、彼は常に仲間に求められた。快活な精神のおかげで、彼は窮地を切り抜けるすべを心得ていた。

(モーゼルのサリエーリ伝。『サリエーリ  生涯と作品』第5章より)

 

サリエーリとは美しい外観をした彼の家で会いました。彼は大広間でたくさんの楽譜と楽器に囲まれて座り、衣服とコートの上にマントを羽織っていました。暖房をつける習慣が、彼にはなかったのです。彼は控えの間で脱いだマントを着るよう勧めてくれましたが、そのとき私は寒さを感じませんでした。[中略]彼は最後に会ったときより老け込んでいましたが、以前と変わらず容貌も物腰も洗練された紳士でした。彼は愛想よく、打ち解けてたくさんのことを語り、さまざまな劇場の歌手とオーケストラについても率直かつ正確に話してくれました。私は心からの感謝と喜びに包まれ、彼のもとを辞しました

(J. F. ライヒャルトの不詳の友人宛の手紙。1808年11月30日付。同前)

 

私は齢70歳になりますが、以前あなたがいつも目にしたような生活をヴィーンで続けています。すなわち、男女の弟子たちを相手に歌い、演奏し、馬鹿げたお喋りをしています。そして読書も、散歩も、作曲もしていますが、私にとって唯一の気晴らしは独りきりになり、こうして自分のすることを考えることです。神様が「もう充分」とおっしゃるまでは。 

(サリエーリの手紙、ヨーゼフ・ハルトマン・シュトゥンツ宛。1820年1月9日付。同前、第6章より)

 

 ロッシーニ ──「サリエーリは素敵なおじいちゃんだった! そのころ彼はカノンの作曲に夢中でね、毎日正餐の後、きまって私たちのところにやって来ていたよ」。ヒラー ──「カノンを作曲しにですか?」。ロッシーニ ──「それを歌わせにさ。妻と私、それに私たちといつも食事を共にする[ジョヴァンニ・]ダヴィドと[アンドレーア・]ノッツァーリとでなかなかの四重唱団を成していたのだ。でも果てしないカノン責めに、終いにはやめさせてくれってお願いすることになるのだけれど」。

 [ロッシーニは続いてサリエーリのオペラに言及すると、興奮気味にヒラーへ問いかけた]   

「可哀想なサリエーリ! 彼はモーツァルトの死に責任があると非難されていたのではなかったかね?」「そんなこと誰も信じやしません」と私[ヒラー]は落ち着いて答えました。「彼自身もそうさ。でも、そんな中傷が本当に広まっていたのだ。ある日カノンを歌った後、私は面と向かってこう訊いてみた ──あなたは本当にモーツァルトを毒殺したのですか、とね。するとサリエーリは姿勢を正してこう言ったのだ ──私の顔をしっかり見てごらん。人殺しに見えるかね、と。確かにそんな風には見えなかった」。「でも、彼がモーツァルトに嫉妬したことはあったでしょうね」と私は口を挟みました。「大いにありうる」── ロッシーニは答えました ──「でも、それと毒薬を用意することとの間には飛躍がありすぎるよ」           

(フェルディナント・ヒラー『ロッシーニとのお喋り』1855年10月。同前、第7章より)

 

 

  

読むサリエーリ(お薦めの4冊)

左から

『アマデウス──モーツァルトとサリエーリ』(TBSブリタニカ、1987年。絶版)

 第一次アマデウス・ブームを受けて1987年3月28日~5月5日にサントリー美術館で開催されたサントリー音楽文化展「アマデウス──モーツァルトとサリエーリ」の豪華目録。国立音楽大学、ヴィーン楽友協会、ザルツブルク国際モーツァルテウム財団の協力により、大変充実した文献=写真集となっています。絶版につき、中古をお探しください。

 

サリエリナハト』(音食紀行、2018年)

 ⾳楽と食事を通じて時代旅⾏を疑似体験するイベントを主催する「音食紀行」の同人誌でサリエーリに特化した1冊。代表の遠藤雅司さんをメインに、ヤスキハガネ、白沢達生、かげはら史帆さんが独自の視点で文章を寄せています。音食紀行のサイトから購入可能です。

 

水谷彰良『サリエーリ  生涯と作品(復刊ドットコム、2019年)

 2004年に音楽之友社から上梓し、絶版となっていた『サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長』の復刊。サリエリストたちの復刊ドットコムへのリクエストにより、2018年に復刊されました。大幅に増補改訂し、最新情報も追加しましたので、日本語の基本文献としてご活用ください。

 

遠藤雅司『宮廷楽長サリエーリのお菓子な食卓』(春秋社、2019年)

 サリエーリの生涯とエピソードを軸に、18~19世紀のヴェネツィア、パリ、ヴィーンの料理、菓子、飲料の再現も試みた「音食紀行」主宰者ならではのユニークな本。『サリエーリ 生涯と作品』とは異なる視点と好奇心の産物で、再現料理のカラー写真とレシピも楽しめます。音食紀行のサイトで注文すると、サイン付き&送料無料です。