サリエーリ2025

 

サリエーリ没後200年を記念して

この頁には、サリエーリ没後200年の2025年と関連した原稿や復興の動向を掲載します。

まずはこの頁を設置公開し、原稿は順次追加していきます(水谷彰良)

 

更新記録

2025年8月11日──当ページを公開し、没後200年を迎えたサリエーリに関する情報と、没後200年記念の講演配布資料を掲載(2025年7月20日、日本ロッシーニ協会例会)

    

サリエーリ復興の現在 ── 没後200年に何が起きているのか 

 2025年7月20日(日)  日本ロッシーニ協会例会 「サリエーリ復興の現在」 テキスト

 

サリエーリ復興の現在─没後200年に何が起きているのか 水谷 彰良

 【案内文】

今年2025年は、オペラ作曲家・ウィーン宮廷楽長・教育者として活躍したアントーニオ・サリエーリの没後200年に当たります。これを記念した催しがウィーンその他で行われ、生前未上演に終わった歌劇《クブライ、韃靼族の大汗 》も昨年4月アン・デア・ウィーン劇場にてクリストフ・ルセ指揮レ・タラン・リリクによって世界初演され、新たな伝記や文献もスペインとドイツで出版されています。その一方、サリエーリの経歴に関する新たな誤謬やフェイクニュースが文献とインターネット上に蔓延しています。この例会では《クブライ》世界初演を含む最新の上演映像と共に、没後200年のいま何が起きているのか概説します。    

  

サリエーリの記念年(2000年と2025年)

重要作曲家の生誕もしくは没後200年などの節目には、国際シンポジウム、フェスティヴァル、大規模な展覧会、クリティカル・エディションの作成、復活上演、世界初録音、文献の出版などが早くから準備される。

サリエーリの場合は生誕250年の2000年に続いて没後200年の2025年が重要な節目となるが、2000年に比して低調である。これは他の作曲家も同じで、モーツァルトは先行した没後200年の1991年が最大で生誕250年の2006年は低調、ロッシーニは生誕200年の1992年が最大で没後150年の2018年は低調だった(関係者のエネルギーが最初の大きな記念年の前後に集中することが原因でもある)。サリエーリの生誕250年については拙著『サリエーリ 生涯と作品』(復刊ドットコム、2019年)の補章「現代のサリエーリ復興」327-343頁を参照されたい。

以下、サリエーリに関する最新の動きや催しを概観する。

 

※サリエーリの故郷レニャーゴはかねてよりウィーン中央墓地に眠る遺体の返還を求め、欧州議会にも働きかけたが、2022年4月ウィーン市長はその依頼を正式に拒否した。これを受けてレニャーゴ市長は壁際の墓を偉大な作曲家にふさわしい場所へ移動し、複数の銘板の記載の誤謬(名前、生まれた町の名称と誕生日)の修正を懇願したが、実現の見込みはないという。サリエーリの洗礼簿が正式に確認されたのは1928年なので、誤謬は仕方ないが…… 

ウィーン中央墓地のサリエーリの墓、アン・デア・ヴィーン劇場の近くの路上のプレート、サリエーリの洗礼記録

 

※昨年(2024年)1月のザルツブルク・モーツァルト週間が「モーツァルトとサリエーリ」をテーマに開催され、その一環にマリオネット劇場が毒殺疑惑を世に広めたリムスキー=コルサコフの歌劇『モーツァルトとサリエーリ』を4回上演した。そこでは「独身時代のサリエーリが自分を捨てた恋人イゾラから渡された毒薬の小瓶を保管していた」との架空のプロローグを演出家・劇作家マティアス・ブントシューが追加し、劇中のモーツァルト毒殺を示唆した。そんな悪意ある改作が国際モーツァルテウム財団やモーツァルテウム大学との共同制作なのだから、呆れずにはいられない。

★2024年ザルツブルク・モーツァルト週間(1月24日~2月4日)の宣伝ビデオ(芸術監督ロランド・ヴィラゾン[ビリャソン]) 1:29

 

※シンポジウムは2025年に次の二つ。

4月25日 ザルツブルク州立劇場《逆さまの世界》シンポジウム

https://www.salieri2025.at/event-details/symposium-zur-premiere-von-il-mondo-alla-rovescia-am-salzburger-landestheater

5月9日 ウィーン国立音楽大学のシンポジウム:声楽教育への情熱:現代声楽教育におけるアントーニオ・サリエーリの遺産」https://www.salieri2025.at/event-details/symposium-leidenschaft-gesangspadagogik-antonio-salieris- erbe-in-der-heutige-gesangsausbildung

 

※大規模な展覧会、サリエーリのオペラに特化したフェスティヴァルは無く、ウィーンにおける演奏会を中心にしたシリーズ「Salieri 2025」のみ。基本情報は主催者のサイト参照 https://www.salieri2025.at/

 

※ダ・ヴィンチ・エディションによる批判校訂版(クリティカル・エディション)の出版は停滞し、オペラの出版は2017年の《トロフォーニオの洞窟》が最後。

《ファルスタッフ》はリコルディ社のそれが今年成立したが未出版(Elena Biggi Parodi校訂。後述)

《クブライ》は先月、総譜とピアノ伴奏譜がエディション・ストレッタから出版されたが(Johan van Slageren / Udo Wessiepe校訂)、これは異例のことと言える。

註:近年復活した作品(《アルミーダ》《ヴェネツィアの市》など)はすべて自筆譜に基づく校訂版が成立しているが、貸譜のみで出版されないことも多い。

 

※重要な世界初録音は2020年録音の歌劇『アルミーダ』(ルセ指揮レ・タラン・リリク。2021年発売)と2024年録音《クブライ》(同前。2025年発売)

 

※最新の重要上演に《クブライ》2024年4月5日アン・デア・ウィーン劇場の世界初演がある(後述。劇場が改装中のため上演はMuseumsQuartierで行われた)。ほかに──

《やきもち焼きの学校》アメリカ初演が2025年1月10~19日(6回)ロサンジェルスのパシフィック・オペラ・プロジェクトによって行われ、新たな批判校訂版を用いた《ファルスタッフ》初上演が1月19、22,24、26日(4回)ヴェローナのフィラルモーニコ劇場であり、ザルツブルク州立劇場では《逆さまの世界》が4月26日~5月27日(7回)に上演された。6月21日にはスペインのバリャドリッドの中庭でサリエーリのカンタータ《ティロル国民軍Der Tyroler Landsturm》(1799年)の一部が初演?された。今後の上演に7月27日ザモラのプリンシパル劇場におけるモーツァルト《劇場支配人》とサリエーリ《はじめに音楽、次に言葉》、12月3~7日(3回)シカゴ歌劇場の《ファルスタッフ》があるが、記念年にしてはきわめて低調である(日本の上演については後述)

★2025年1月ヴェローナの新批判校訂版による《ファルスタッフ》の宣伝ビデオ  3:17

★2025年4月ザルツブルク州立劇場《逆さまの世界》の宣伝ビデオ 3:03

★2025年6月バリャドリッドにおけるカンタータ《ティロル国民軍》の序曲と第1曲 6:03

 

《やきもち焼きの学校》アメリカ初演

1778年12月にヴェネツィアのサン・モイゼ劇場で初演されたこの喜歌劇により、サリエーリの名はヨーロッパ中に轟き、ゲーテにも称賛されたが、2015年に世界初録音されるまで2世紀間忘れられていた。

台本は後にダ・ポンテを超える評価を得るカテリーノ・マッツォラがアマチュア時代に書き、サリエーリは1783年のウィーン上演で改作を施した。物語は身分の異なる3組のカップル──バンディエーラ伯爵夫妻、商人ブラージオとその妻エルネスティーナ、ブラージオの召使ルマーカと小間使いカルロッタ──を中心に展開し、伯爵の友人の中尉(テネンテ)が狂言回しの役割を務める。

 女好きの伯爵が嫉妬深い商人ブラージオの妻エルネスティーナを誘惑しようとする。それを知った伯爵夫人は悩み、ブラージオも嫉妬に苦しむ。2人をよく知る中尉が一計を案じ、エルネスティーナと伯爵がそれぞれ配偶者にやきもちを焼くよう偽の肖像や恋文を用意する。結局その仕掛けはばれてしまうが、2組のカップルが自分の嫉妬を反省して仲直りするという筋書は、モーツァルト《コジ・ファン・トゥッテ》とも通底する。音楽はテキストに沿って柔軟な形式をとり、伴奏管弦楽も変化に富む(作品の成立とあらすじは『サリエーリ 生涯と作品』80-82頁を参照されたい)

★2025年1月《やきもち焼きの学校》アメリカ初演より、第1幕N.3ブラージオとエルネスティーナの小二重唱(珍妙な文章の読み上げで始まる)2:28、N.5伯爵のカヴァティーナ(私には世界があらゆる種類の少女のギャラリーに思える、と歌う)3:04、N.11伯爵夫人のアリア(嫉妬、悪意、軽蔑が私の心を引き裂く、と歌う怒りのアリア)4:06、第2幕N.12カルロッタのアリア(私が街を堂々と優美に歩き、注目されることを想像すると胸が高鳴る、と歌うシャーベット・アリア)2:32、伯爵夫人のための追加アリア(夫がエルネスティーナのもとに行ったと嘆く伯爵夫人は、夫の愛情の取り戻したいと願う)5:20、フィナーレ後半部(嫉妬と誤解が解け、それぞれのカップルが仲直りするアンサンブル)6:25  23分

 

※文献の新刊は過去1年間に次の3種が出版。

・Franz Xaver Mair, Im Schatten Mozart: Antonio Salieri, Tredition, Ahrensburg, 2024.

 (マイアー『モーツァルトの影で アントーニオ・サリエーリ』2024年)。「オペラとハプスブルク家の音楽の伝統に捧げ

 られた人生」との副題があるが、寄せ集め的な読み物なのでお薦めしない

・Ernesto Monsalve, Antonio Salieri, El hombre que no mató a Mozart, Ediciones Rialp, Madrid, 2024.

 (モンサルヴェ『アントーニオ・サリエーリ モーツァルトを殺さなかった男』2024年。イタリア語版Antonio Salieri

 L'uomo che non uccise Mozart, Edizioni Ares, Milano, 2025)。

 資料を基によく書けているが、レクイエムの解釈やチマローザの宮廷楽長に関する記述に問題や誤謬がある。

・Markus Böggemann (HG), Antonio Salieri, Neuentdeckung Eines Verkannten. Ein Lesebuch, Böhlau, 2025.

 (ベッゲマン編『アントーニオ・サリエーリ 誤解された男の再発見』2025年)。複数の執筆者による論文集。 

マイアー『モーツァルトの影で」、モンサルヴェ『モーツァルトを殺さなかった男』スペイン語版とイタリア語版、ベッケマン編の論文集

 

新たな謎(1)《レクイエム》の作曲年と動機

 サリエーリの《レクイエム》の自筆譜には「1804年8月」との日付があり、これが作曲時期とされたが、近年これを「1807年」に修正する動きがある。

T. J.ヘルマン(Timo Jouko Herrmann, Eine Biografie, Morio Verlag, Heideelberg, 2019. pp.193-194)はインクの濃淡とサリエーリの筆跡の不鮮明さから晩年の書き加えと断言し、サリエーリが作曲家ツェルターに(1807年の)妻の死後、自分はすぐその後を追うと信じて自分のためのレクイエムとしてこれを作曲したと語ったことを根拠に1807年とするのだ。ヘルマンは「後にサリエーリが誤った日付を追加した」「妻の死後サリエーリは深刻な鬱状態に陥り、公の場に姿を現すことがほとんどなくなった」とも述べているが、それだけで作曲年を1807年とするのは無謀ではないか?

だが、モンサルヴェ(2024)はヘルマンの見解をそのまま受け入れ(出典を示さずに)、1805年秋の一人息子の死とその1年半後の妻テレジアの死が「作曲家を深い鬱状態に陥れ、自分の存在を真剣に考え直すきっかけになり、自分のレクイエムを作曲することになる」と書き、作品表で「1807年」を採用した。そして自説を補強すべく、19世紀のウィーンではレクイエムの演奏が多数行われ、ウィーン宮廷楽団が1820~1900年に641回レクイエムを演奏したことでも故人を偲ぶレクイエムが一般的だったとし、副楽長アイブラーが1803年に作曲したハ短調のミサ曲を知るサリエーリが「嫉妬からか、もしくは自分の存在価値を主張したいとの欲求からか」、アイブラーと同じ調性のレクイエムを作曲することにした、とやや矛盾する見解も述べている。そのうえで自筆譜の「1804」だけが奇妙に目立ち、明らかに後からの付加で、「4」は9か7ではなかったかと述べ、後に自分の伝記のために作品の年代と定めようとしたサリエーリが作曲時期を誤って1804年と記憶していたのではないか、との仮説すら述べている(イタリア語版 pp.207-209)

以下、水谷の意見(詳しくは口頭で)──自分のための《レクイエム》を作曲したケースは極めて稀で、サリエーリ以前にそれをなした作曲家はいない(おそらくデュファイがそれをした唯一の作曲家だが楽譜は現存しない。モンサルヴェ、p.208)。であれば動機が問題になるが、1804年54歳でこれをする理由は見当たらない。作曲動機に関する証言はサリエーリがツェルターに語った言葉のみなので、研究者がこれに飛びつくのは理解できるが、その証言が1819年8月(69歳の誕生日の直前)であることを考えると、そのまま信じていいかどうか……そもそも作曲年代の推定は科学的にすべきで、用紙と筆跡による年代特定が可能なのにそれが行われていないのは解せない。1804年の下に別な数字が書かれていれば、それを読み取るすべもあるのに……。「1804」が書き足し(付加)に見えるのはサリエーリがここでペンにインクを付け、しっかり書いたからではないか、と私は思うが、確証がないのでそれを本に書かなかった。今年出版された前記論文集(Böggemann(HG), Antonio Salieri, 2025)に掲載されたサリエーリの宗教音楽に関するBenedikt Lodesの論文は「1804年」の作としている。

 

※サリエーリの《レクイエム》にモーツァルトの歌曲の片鱗が聞こえることは、筆者が2006年にイタリア研究会で行った講演「サリエーリとモーツァルト」ではじめて明らかにした(あくまでロマンティックな想像上の偶然の一致として)

★モーツァルトの歌曲〈おお聖なる絆よO heilinger Bund〉K.148(1772-75[推定])

   おお、聖なる絆よ          しかも世に逆らわず

   真の兄弟たる者の友愛の絆よ     名は知られるも

   それはいと高き至福とも       多くは謎に包まれてある

   エデンの歓喜ともいえよう      そう、名は知られるも

   信仰に親しみ            多くはなお謎に包まれてあるのだ。   (訳:石井 宏)

 

★サリエーリ《レクイエム》(1804)よりラクリモーザの途中から(2種) 3:18

 

新たな謎(2) ラ・フォリアの主題による変奏曲は「24の変奏曲」それとも「26の変奏曲」?

サリエーリが1815年に作曲した《スペインのラ・フォリアの主題[アリア]による変奏曲》は、26の変奏から成り,題名と変奏の数に齟齬があることから印刷楽譜やCDは26の変奏曲とするが、拙著を含めて「24の変奏曲」とする文献もある。これはサリエーリ自身による楽曲のカットと題名の書き換えに原因があり、最初に26(Ventisei)と書いたものが、後からseiを抹消して上にquattroと書き足されている。

『サリエーリ 生涯と作品』では「サリエーリは主題と26の変奏から成るこの作品を「26の変奏曲」と題したが、後に21番の変奏を削除している(題名は「24の変奏曲」と誤って修正)」と述べ(p.246)、註に「ダニーロ・プレフーモはサリエーリが題名の数字を「Ventisei (26)」から「Venticinque (25)」に書き換えたとする(Danilo Prefumo, Musica per un tempio della note. Le opera strumentali di Antonio Salieri. [AA.VV., Antonio Salieri. La carriera di un musicista fra storia e  leggenda, Lucca, 2017.] p.169.)。だが、自筆譜における変更後は明らかに「Ventiquattro (24)」である」と追記しておいた(p.274)

この問題に関して前記論文集(Böggemann(HG), Antonio Salieri, 2025)の中でMarkus Boggemannは「誤って24に訂正された」が、書き換えは後世になされ、その筆跡は右隅の1815の下に「durano un quarto d’ora」と追加されたのと同じと認定した(Böggemann, 2025. p.82)。それゆえ拙著の記述「サリエーリは主題と26の変奏から成るこの作品を「26の変奏曲」と題したが、後に21番の変奏を削除している(題名は「24の変奏曲」と誤って修正)」が正しかったことになる。

★サリエーリ《ラ・フォリアの主題による変奏曲》(1815)より第21変奏から最後まで(自筆譜付き) 6:54

 

新たな謎(3) サリエーリと妻の書簡はなぜ現存しないのか?

サリエーリが自作の見直しを行ったのは1821年以降とされる。彼はここで自分の手元にあるすべての楽譜を再検討し、コメントを付し、必要と思われる音楽の書き換えを行い、自分の死後にそのすべてが楽友協会に寄贈されることを遺言で指示した。その結果、現在ウィーン国立図書館に大量の自筆譜が保管されているのだが、遺言には書簡に関する指示がない。これはサリエーリ研究者にとって最大の謎のはずだが、「不都合な真実」として言及されない。以下、口頭で……

 

蔓延するフェイクニュース──チマローザのウィーン宮廷楽長就任

多くのチマローザ文献に、1791年末にチマローザがウィーンに来て、皇帝レーオポルト2世からサリエーリに代わって宮廷楽長に任命され、サリエーリはレーオポルト2世の死後に復職したと書かれている。これは事実無根の誤謬であるにもかかわらず広く流布し、日本語版のWikipediaの「チマローザ」にも「1791年(42歳) レオポルト2世の招きで、アントニオ・サリエリの後任としてウィーンの宮廷楽長となる」と書かれている。

だが、サリエーリの研究者なら、サリエーリが宮廷楽長を解任されたことは一度もなく、チマローザがサリエーリに代わってレーオポルト2世から任命された話は当時ベルリンの新聞に掲載された「噂」と、初期のチマローザ伝の記述が発端のフェイクニュースと知っているはずである。ところが『新グローヴ音楽・音楽家事典』の項目「Cimarosa, Domenico」(Jennifer E. Johnson筆、Gordana Lazarevich改訂、2001年出版。オンライン版2001年)に「チマローザは1791年6月に宮廷を去った。ワルシャワで3ヶ月過ごした後、ヨーゼフ2世の死後まもなくヴィーンに到着した。[中略]ヴィーンに到着すると、チマローザはレーオポルト2世から楽長[Kapellmeister]に任命され、[中略]オペラ『秘密の結婚(Il matrimonio segreto)』の作曲を依頼された」(オンライン版の1. Life.より)とあり、同事典の第1版(1980年)の日本語版(講談社、1994年)の第10巻の項目「チマローザ,ドメニコ」に「[ロシアとの1791年の]契約切れと同時にサンクトペテルブルクを去り、その足で同年後半にウィーンに到着した。ウィーンでは直ちに皇帝レーオポルト2世の楽長に任命された」となっている(Jennifer E. Johnson筆、川端真由美・訳。p.474)。それゆえ19世紀のチマローザ文献だけでなく、権威ある(と思われている)事典の記述を通じて誤謬が蔓延したのである。その結果、最新のサリエーリ伝にもこれが事実として書かれているのだ(モンサルヴェ、pp.15-16)

笑っちゃうのは、チマローザ研究者が常に誇らしげに書く、皇帝が《秘密の結婚》を即座に全曲再演させたという有名な話(前代未聞のアンコール)も、実は根拠ゼロらしいこと。誰もその話の出典を示さず、公文書やドキュメントにもそんな話は書かれていないのだ。チマローザ研究者はこれについてもフェイクニュースを蔓延させていると言って良い。この問題は、後日論文を執筆予定である。

 

※これに伴い、筆者が『サリエーリ 生涯と作品』188頁に記した、「レーオポルト2世はモーツァルトの死で空席となった宮廷室内作曲家のポストをチマローザに与えた」を従来説に基づく誤謬として訂正したい。最新研究によればモーツァルトの役職「(室内)作曲家 (Kammer) Compositor」はヨーゼフ2世が新たに創ったポストであり、同じ役職名の前任者グルック、名称がやや異なるモーツァルトの後任者とはあり方が違うという。この問題に関しても後に論文で明らかにしたい。

 

※日本に固有なサリエーリ受容の問題点

2018年からFGOをきっかけに「サリエリ」が注目されたが、研究者は現れていない(千葉大学のゼミでモーゼルのサリエーリ伝を購読する大塚 萌さんを除いて)。それゆえ日本におけるサリエーリ復興には、日本ロッシーニ協会のような関係者の協力団体を設立する必要がある。以下、口頭で。

 

 

《クブライ、韃靼族の大汗Cublai, gran kan de’ Tartari》

サリエーリが1786年夏から着手した2幕の英雄喜歌劇[ドランマ・エロイコーミコ]《クブライ、韃靼族の大汗Cublai, gran kan de’ Tartari》は、モンゴル帝国第五代皇帝クビライ[フビライ・ハン]を主人公とする題材がトルコ戦役の時世に不適切と判断され、未上演のまま放置された(オーストリアは同盟を結ぶロシアの支援を必要としたが、カスティの台本には女帝エカテリーナ二世とその宮廷に対する風刺が含まれていた)。この作品は1998年ヴュルツブルクのマインフランケン劇場にてドイツ語版で世界初演されたが、イタリア語の原語初演は2024年にアン・デア・ウィーン劇場でなされた(会場はMuseumsQuartier 題名はKublai Khan)

これは演出家がサリエーリを登場させ、ドイツ語台詞を多数加えただけでなく、設定の変更、楽曲のカット、楽曲順序の恣意的変更などにより、本来の作品とは別なものになっている。それゆえ正しい理解には別途全曲録音されたCDを聴く必要がある(ルセ指揮レ・タラン・リリク。Aparte輸入盤. 2025年発売)

以下、残り時間で2024年の原語初演上演映像をダイジェストで鑑賞する。

 

上演映像の演出について

1787年にジャンバッティスタ・カスティの台本に作曲されたこのオペラは政治と文化の衝突を描くため、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世は1788年のオーストリア・トルコ戦争の勃発後、初演中止を命じた。この上演の演出家は、そうした歴史的な背景をサリエーリ自身にコメントさせるとともに、舞台をフビライ・カーンのブランドのチョコレートを生産する世界的な商業組織に置き換え、メンマとボッツォーネを外部マーケティングのコンサルタント会社、ティムールを会社の重役、クブライを現在の会社のCEOとする。そしてウクライナ戦争の勃発で進行する諸問題も反映させている。

演出:Martin G. Berger、指揮:Christophe Rousset、演奏:Les Talens Lyriques、クブライ:Carlo Lepore、リピ:Lauranne Oliva、ティムール:Alasdair Kent、アルジマ:Marie Lys、ポセガ:Äneas Humm、オルカーノ:Fabio Capitanucci、ボッツォーネ:Giorgio Caoduro、メンマ:Ana Quintans、サリエーリ:Christoph Wagner-Trenkwitz

 

登場人物

クブライCublai……タール人の大ハーンで中国皇帝

リピLipi……クブライの息子で愚かな少年

ティムールTimur……クブライの甥、アルジマの恋人

アルジマ[アルヅィマ]Alzima……ベンガルの王女。リピの結婚相手にも求められるがティムールを愛する

ポセガPosega……リピの家庭教師

オルカーノOrcano……儀式の司会者

ボッツォーネBozzone……宮廷に雇われたイタリア人の男

メンマMemma……宮廷に雇われたイタリア人の女

 

《クブライ》あらすじ(CDブックレットのあらすじをアレンジ)

 第1幕

権力を持ち、享楽を好むが酒には弱いカタイ[中国/モンゴル]の君主クブライ・カーンは、息子リピをベンガルの王女アルジマ[アルヅィマ]と結婚させようと企んでいる。そのためにクブライは甥ティムールにアルジマを宮廷に連れてこさせる。だが、この計画には彼が全く気づいていない二つの困難が待ち受けていた。アルジマとティムールは恋仲にあり、そのことは誰の目にも明らかだった。一方、ポセガに育てられ、父とほとんど交流のないリピは女性にまったく興味がなかった。長年、クブライ・カーンに家庭教師としての成功を語ってきたポセガは、ここで窮地に立たされる。彼はリピに、「女は残酷で打算的だから、絶対に結婚すべきではない」と説き伏せる。カタイの宮廷に雇われた二人のイタリア人冒険家メンマとボッツォーネは、こうした出来事を皮肉を込めて語る。毅然としたメンマはすべてのタタール人にヨーロッパ流に倣って髭を剃るよう説得する。結局、避けられない結末が訪れる。アルジマとリピの最初の公式会談は、スキャンダルに終わるのだ。

 

第2幕

ボッツォーネは、フビライ・カーンが甥のティムールを後継者にし、ティムールがアルジマと結婚すれば、関係者全員にとって最善の結果になると理解する。宮廷における権力の座を失うことを恐れたポセガは、アルジマに対してティムールとメンマの信用を失墜させようとし、王位を狙うメンマがフビライ・カーンとリピを倒してティムールと共に統治しようとしていると告げる。だが、紆余曲折を経て、すべてはうまく解決する。ティムールはカタイの王位継承者に指名されてアルジマと結婚し、リピはポセガのもとで学業を続けることができるのである。

 

 

  

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