ロッシーニの死とその前後の出来事、ロッシーニの死と葬儀に関する論考、図版、関連資料を掲載するコーナーです。まずはこの頁を設置公開し、原稿は順次追加していきます。(水谷彰良)
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2025年10月6日 ── 当ページを公開し、ロッシーニの死と関連する文章を掲載
ロッシーニ 生涯と作品(1)1792~1809 水谷彰良
はじめに
ロッシーニの生涯を再構築する試みは、生誕200年の1992年から30年間(2022年まで)に出版された伝記においても充分な成果を得ていない。広範囲に及ぶ個別研究の成果を反映させた伝記的記述が困難であるだけでなく、ロッシーニの家族宛のまとまった書簡の再発見が21世紀の出来事であり(ロッシーニ財団によって2004年刊。往復書簡集第3巻a)、1992年から4年に1巻のペースで進められた『書簡とドキュメント集』の出版が滞っていることも原因である(最新の第5巻は2021年に出版されたが、家族宛の書簡の発見により第3巻までの改訂も不可避であり、第6巻の出版は未定という)。作品に関しても、作曲時期の推定、初演と出版のデータ、作詞者に関する情報その他、数多くの変更と修正が行われている。
その意味では「最新研究に立脚した伝記はまだ存在しない」というのがロッシーニ研究者の共通認識であったが、2022年に出版されたパオロ・ファッブリ著『素早い稲妻のように ロッシーニの芸術と生涯』(Paolo Fabbri, Come un baleno rapido, Arte e vita di Rossini, Libreria Musicale Italiana, Lucca, 2022)はその欠を補う画期的な業績と評価されている。けれども同書に掲載されたファッブリ編の新たな作品目録(pp.721-775)における「劇作品(Musica teatrale)」の「1a オペラ(1a Opere)」は劇音楽《コロノスのエディポ)》や機会作品の舞台合唱劇《テーティとペレーオの結婚》、牧歌的カンタータ《感謝》のほか、台本と楽譜が現存せず題名も不明な劇作品──例えばN.12《パルミラのアウレリアーノ》(1813年)とN.14《イタリアのトルコ人》(1814年)の間に作曲が開始されて中断されたジェノヴァのサンタゴスティーノ劇場のための作品(題名など一切不明)──をN.13としてリストに加えて「オペラ」が通番号でN.1-55とするなど、筆者(水谷)には承服しがたい措置がなされている。他にも自筆譜の所在が欠落した作品や、ファッブリ自身が全集版VI / 1で1808年の作と推測したラヴェンナで作曲された二つのシンフォニーア(2b Musica strumentaleのN.3とN.4)を「1808-10?」として作曲年に幅をもたせて新たに「?」を加えるなど整合性を欠く部分もある。それゆえ必ずしもファッブリの作品目録を典拠にしえないという問題がある。
現在求められている伝記は個々の情報の出典や典拠を明示し、問題点を注記して第三者のチェックを可能にするものでなければならない。その一方、事実の背後にある出来事や第三者による同時代の新聞報道も取り上げる必要があり、それをなせば収拾がつかぬほど膨大な資料集にならざるを得ないだろう。筆者が『ロッシニアーナ』第41号(2021年)で公にした「ロッシーニ最後の4年間(1865~1868年)」のように、記述を1865年1月からロッシーニの死までの4年間に絞っても300を超える脚注を含めてB5版全49頁、新書版なら100頁を超える分量になってしまうのだ。
そもそも膨大な事実や資料から何を取り出し、どこに焦点を当てるかは伝記作家の裁量に属し、一定の分量と頁数に収める行為は何を拾うか以上に何を捨てるかにかかっている。それゆえ一見客観的に見える記述も、作者による主観的な取捨選択と加工で成り立つことは言うまでもない。ロッシーニの誕生からデビュー作《結婚手形》の直前(1810年7月末)まで約18年間の足みを原稿用紙70枚程度で概説する本稿もまた、そうした取捨選択で成立している。そこにはエドモン・ミショットがロッシーニから聞いた少年時代のエピソードも出典を明示して引用したが、実際にロッシーニから聞いた言葉かどうかの真偽の解明は不可能である。だからといって、それらを二次的な素材としてすべて除外したり注釈に回すことはしなかった。脚注をご覧いただければ、一次資料に基づく研究文献と19世紀末~20世紀初頭の二次的資料との違いは一目瞭然となるからである。
ここに掲載するのは、『ロッシニアーナ』第32号(2011年12月発行)に掲載した拙稿「若年期のロッシーニ(1792~1810年)──誕生からデビューまでの軌跡(新たな伝記の試み)」の増補改訂版である。タイトルを「ロッシーニ 生涯と作品(1)誕生からオペラ作曲家となるまで(1792年~1809年)」と変更し、後日『ロッシーニ 生涯と作品』として出版する筆者のロッシーニ伝の第一章となすべく、全面的な改訂を施した。ネット上で読めるように貼り付けた文章とは別に添付するPDF版は本稿の原本で、書式は『ロッシニアーナ』と同じB5版(1頁は44字×43行)である。それが正式な原本となるので、引用者はPDF版を出典として明示されたい。なお、誤字脱字などのタイプミスは随時修正させていただく。最終的には書籍化されたものを「決定版」とするが、筆者の存命中に完成できるかどうか心もとないので、協会ホームページのそれを発表時における「決定版」とご理解いただきたい。
(2025年10月11日 水谷彰良)
未来の大作曲家ロッシーニがこの世に生を受けたのは1792年2月29日、アドリア海に面した中部イタリアのペーザロ(Pesaro)においてである。教皇領に属するマルケ地方の中でも洗練されたこの小都は、豊富な農産物とアドリア海の恵みが住民の生活を潤していた。内陸に約30 km入ると画家ラッファエッロ生誕の地ウルビーノがあり、現在はペーザロ・ウルビーノ県の県都となっている。
地名がフォリア川(fiume Foglia)の古代名称イサウルス(Isaurus)もしくはピサウルス(Pisaurus)に因むラテン語のピサウルム(Pisaurum)に由来するペーザロは、古代イタリア人種のシクリ人(Siculo)に起源をもち、諸民族の入植を経て紀元前184年にローマの植民都市となった[1]。476年の西ローマ帝国崩壊後は東ゴート族に侵略されたが、ゴート戦争を経た544年、ユスティニアヌス1世の東ローマ帝国に編入された。774年にはフランク王国のカール大帝(Charlemagne, 742-814 在位768~814年)により教皇領に移されたが、カロリング帝国に支配され続けた。そして12世紀前半には独立した自治体となった後も教皇と帝国の闘争に巻き込まれ、教皇の直轄地となったのは13世紀だった。ルネサンス期の実質的支配者はマラテスタ家(Malatesta。統治期間は1285~1445年)とスフォルツァ家(Sforza 統治期間は1445~1512年)で、人文主義者・詩人パンドルフォ・コッレヌッチョ(Pandolfo Collenuccio, 1444-1504)が名を馳せたが、ジョヴァンニ・スフォルツァに疎まれて死刑に処せられている。続いて教皇ユリウス2世(Julius II, 1443-1513 在位1503~13年)の尽力で1512年もしくは1513年にデッラ・ローヴェレ家(Della Rovere)の領土となった。
1581年のペーザロ(16世紀の版画より部分)
ペーザロの文化的繁栄は以後1631年まで100年以上続くデッラ・ローヴェレ家の支配期にもたらされ、その間に町を取り囲む壁が築かれ、五角形の城塞都市に整えられた。この城壁は第二次世界大戦後に完全に取り壊され現在は僅かな痕跡を残すのみだが、19世紀末の版画や20世紀初頭の写真に壁の外に広がる農地が見て取れる。重要な歴史的建造物であるモンターニ・アンタルディ宮殿(Palazzo Montani Antaldi)、ポポロ広場と八角形の噴水、丘陵に佇むヴィッラ・インペリアーレ(Villa imperiale)もデッラ・ローヴェレ時代の産物である。けれども1631年4月23日、フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ2世(Francesco Maria II Della Rovere, 1549-1631 在位1574~1621、23~31年)の死により同家の治世が終わるとペーザロは教皇領に戻され、枢機卿の管区となった。1774年の調査によれば、ペーザロの人口は約1万2千人[2]、六つの教区教会。一〇の男子修道院と四つの女子修道院があった[3]。人口はその後20年で1万5千人に増加する。
マルケ一帯は教皇国家の穀倉地帯として農業が産業の中心であったが、ペーザロとその周辺は15世紀からマジョリカ[マヨリカ]陶器の製造でも知られ、ルネサンス・バロック期の名品が市立博物館の陶器博物館(Museo delle Ceramiche)に所蔵されている。ドゥオーモ通り[現ロッシーニ通り]にある聖マリア大聖堂(Cattedrale di Santa Maria Assunta)は19世紀にネオクラシック様式で再建されたもので、入口部分に13世紀末~14世紀初頭ロマネスク様式のオリジナルの石組みが嵌め込まれている。大聖堂の地下1.6mと2.1mには4~5世紀と6世紀に作られた二層のモザイク床があり、人魚の姿も描かれている。このモザイク床は19世紀に存在が確認されていたが、完全な発掘と修復により全貌が明らかになったのは2000年である。
19世紀のペーザロの遠景(版画、1892年) ペーザロの大聖堂 発掘されたモザイク床の人魚
マルケ州の中でもとりわけ裕福なペーザロは良質な海水浴場としても知られたが、1980年にロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル(Rossini Opera Festival)が始まり、ザルツブルク、バイロイトと並ぶ夏の三大音楽祭の一つに成長した結果、2017年10月31日にユネスコから音楽の創造都市(Creative City / Città creativa per la musica)に認定されている。これは2004年に始まった世界規模の創造都市ネットワーク事業に基づき、文学、音楽、映画、デザイン、食文化など七分野に特色ある都市を選んで各都市に内在する可能性を開花させる目的を持ち、イタリアにおける音楽の創造都市認定は2006年のボローニャに続いてペーザロが二番目となる。ロッシーニ没後150年の2018年はイタリア上院議会によってロッシーニ・イヤー(anno rossiniano)と宣言され、その偉業を称える公演や催しが数多く実施された。2019年6月には国家戦略計画の一環としてロッシーニ国立博物館(Museo Nazionale Rossini)が開館、2024年の1年間はペーザロがイタリア文化首都(Capitale italiana della cultura)となるなど特別なポジションを得ている。ロッシーニとその芸術に対する見直しは1968年の没後100年に始まり、21世紀の現在は、モンテヴェルディ、モーツァルトに続いて現れた天才オペラ作曲家との評価が定着している。
ロッシーニの父ジュゼッペ(Giuseppe Rossini, 1764-1839)は、1764年3月13日[4]、ペーザロの北西約100kmに位置するロマーニャ地方のルーゴ(Lugo)にて、ジョアッキーノ・サンテ(Gioacchino Sante, 1739-1787)とアントーニア・オリヴィエーリ(Antonia Olivieri, 1735-1816)の間に生まれた[5]。祖先はラヴェンナ近郊コティニョーラで名前をルッシーニ(Russini)もしくはロッシーニ(Rossini)と綴り、紋章を持つ名家だったとされるが、16世紀に一族でルーゴに移住し、18世紀には没落していたという[6]。
ジョアッキーノ・サンテはルーゴのコムーネ[7]のトランペット奏者を務め、父からトランペットを学んだ息子ジュゼッペは、1787年1月30日に父が没するとその職を引き継いだ。翌1788/89年謝肉祭、ジュゼッペはペーザロの太陽劇場(Teatro del Sole。1637年開場。現在のロッシーニ劇場の前身[8])の上演に金管楽器奏者として参加した。演目は、ジュゼッペ・ガッザニーガ作曲《葡萄摘み(Le vendemmie)》とピエートロ・アレッサンドロ・グリエルミ作曲《高貴な羊飼いの娘(La pastorella nobile)》である。
演奏技術を評価され、1789年3月にペーザロ市から空席のトランペット奏者の一人に求められたジュゼッペは(3月14日に行政官によって発議され、25日付の手紙でこれを受諾)、フェッラーラ軍楽隊のコルノ・ダ・カッチャ[狩猟ホルン]奏者を経て翌1790年3月ペーザロに移り、4月29日、コムーネの正式職員となった。広場でトランペットを吹いて人々を集め、役所の公示やマニフェストを声高に読み上げるのが主な仕事だが、これは多くの人が文盲の時代ならではの職種で要人の訪問や出発時のセレモニーでも吹奏を行った。これとは別に劇場と音楽アカデミーの演奏会でもホルンやトランペットの奏者を務め、食肉加工場の検察官を兼務して年額200スクードの報酬を得ることになった。
溌剌とした性格から「ヴィヴァッツァ(Vivazza[張り切り屋]」と綽名されたジュゼッペは、ファッロ通りのグエッリーニ家の建物に間借りし、ルーゴから呼び寄せた母アントーニアと8歳年下の妹フローラと共に生活した。同じ建物にパン職人ドメーニコ・グイダリーニ(Domenico Guidarini)とその妻ルチーア・ロマニョーリ(Lucia Romagnoli)が3人の子──アンナ(Anna, 1771-1827)、ヌンツィアータ(Nunziata)、フランチェスコ・マリーア(Francesco, 1780- ?)──と共に暮らしていた[9]。ルチーアはウルビーノの出身で、長女アンナは料理人として働いていた[10]。
父ジュゼッペと母アンナの肖像
ジュゼッペと町一番の美人といわれたアンナと恋に落ち、2人が1791年9月26日[11]に大聖堂で結婚式を挙げたとき、アンナのお腹はそれと判るほど大きかった。町では未婚で妊娠したアンナとお腹の子の父に関してさまざまな噂がたったが[12]、熱血漢のジュゼッペは意に介さなかったようだ。そしてドゥオーモ通り334番(現在のロッシーニ通り34番)の建物に新居を構えると、結婚5ヶ月後の1792年2月29日、一人息子ジョアキーノが誕生した。ペーザロの司教区歴史資料館に保管される洗礼簿にはその名がジョヴァッキーノ・アントーニオ(Giovacchino Antonio)と記帳されたが、後にロッシーニが好んでGioachinoと署名したことから現在はジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Rossini)が公式に使われる[13]。
ロッシーニの洗礼が記されたペーザロの洗礼簿(筆者撮影)と洗礼簿の左頁上段に書かれたロッシーニの洗礼記録
■洗礼簿の記帳
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a Dì 29 Febrajo 1792. Mercoledi Giovacchino, Antonio fig.o Giuseppe del fù Giovacchino Rossini, e di Anna[14] fig.a di Dom.co Guidarini Coniugi di questa Cura è stato battezzato da me Giammich.e Giustiniani Curato. Padrini 75.[註]furono il Nobile Sig.r Conte Paolo Macchirelli Giordani, e la Nob.e Sig.a Catterina Giovannelli nata Semproni : Na[註] |
1792年2月29日 水曜日 ジョヴァッキーノ・アントーニオ、故ジョヴァッキーノ・ロッシーニの息子ジュゼッペとドメーニコ・グイダリーニの娘アンナ夫妻[の子に]執行者たる私ジャンミケーレ・ジュスティニアーニがその洗礼式を行えり。名付け親、貴人パオロ・マッキレッリ・ジョルダーニ伯爵と貴婦人カッテリーナ・ジョヴァンネッリ 生名センプローニ:
出生[日] |
註:「75」は同年75番目の記帳を意味する。末尾の「Na」は洗礼日より前に生まれた際の日付を書くための略号と推測。
ジョアキーノの誕生に際して、妻の産みの苦しみの叫び声を隣室で耳にしたジュゼッペが部屋に並べられた聖人の石膏像に悪態をついて棒で叩き壊し、四つ目の聖ジャコモ像を叩こうとした瞬間、赤子の産声が聞いて像の前にひざまずき、ルーゴ教区の守護聖人ジャコモに感謝の言葉を捧げたとする逸話も残されている。これに関してアレクシス・アゼヴェド『G.ロッシーニ、その生涯と作品』(パリ、1864年)は、「大人になったジョアキーノは、父とその親友インノチェンツォ・ヴェントゥリーニ(Innocenzo Venturini)から聞かされたこの驚くべき話を信じたくなかったが、母の証言が100回繰り返され、その不信に終止符が打たれた」と書いている[15]。とはいえ現代の研究者はこれを作り話と見なしている。
ロッシーニが生まれたのは4年に一度しか誕生日の来ないうるう年の2月29日であるが、洗礼記録が受洗日のみであることから生まれた日に洗礼を受けたと認定されている(当時のペーザロの洗礼簿では、受洗日に先立つ出生日が別記される)。その日はモーツァルトの死の2カ月半後に当たり、ヴィーンでは22日前(2月7日)にチマローザ《秘密の結婚》が初演されていた。
ジョアキーノが生まれた家は現存し、15世紀の建築と推測される最初の建物は2階建てで屋根裏部屋があり、内部は中央壁で左右に仕切られ、玄関も二つに分かれていた。現在のように3階と4階が増築されたのは18世紀の大規模改修の結果で、ロッシーニ一家は路地(ガヴァルディーニ通り)に面した右半分の2階部分に一部屋か二部屋を間借りしていた(オリジナルの建物の屋根と窓の痕跡は、路地側の外壁に見て取れる)[16]。大家はスペイン人の枢機卿サヴェリオ・プーガ(Saverio Puga生名Xavier P. Puga, 1729-1798)で、1843年にペーザロ市によって設置された建物正面の銘板には「1792年2月29日、ジョアッキーノ・ロッシーニここに生まれり(QUI NACQUE / GIOACCHINO ROSSINI / ALLI 29 FEBBRAIO 1792)」と刻まれている。この建物は生誕100年の1892年にペーザロ市の所有となり、数度の改修を経てロッシーニの家(Casa Rossini)として公開されている[17]。
現在のロッシーニの家とその銘板
幼年期のロッシーニに関する逸話は、その愛らしさで周囲から「小さなアドニス(il piccolo Adone)」と呼ばれたという以外なにも残されていない。けれども幼いロッシーニの眼に、濃紺の三角帽をかぶり、赤い折り返しの紺色の制服を着た父ジュゼッペの姿が焼き付いていただろう(ジュゼッペはこの制服を着て広場でトランペットを吹いた)。家のすぐそばに大聖堂と複数の教会があり、礼拝ではオルガンの演奏を聴くことができた。ジュゼッペは軍楽隊の奏者を務めるかたわらペーザロの太陽劇場の奏者として1790年謝肉祭から97年秋季までの8年間に、チマローザ、パイジエッロ、アンフォッシ、ガルッピなどのオペラ27作の上演に関与した可能性がある[18]。だが生活は貧しく、二部屋しかない部屋の一つを又貸ししなければならなかった。
そんな一家に暗い影が忍び寄る。フランス革命の余波がイタリアに達し、ペーザロに大混乱を引き起こすのだ。パリでは1789年に大革命が勃発し、ロッシーニが生まれた1792年にはフランスとオーストリアの間に戦端が開かれていた。同年フランスは王政廃止を決議して共和国を宣言(第一共和政)、1796年にはナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821)がイタリア方面軍の最高指揮官となって北イタリア侵攻を開始し、フランス軍は同年5月にミラーノ、6月にボローニャを制圧した。教皇との休戦協定を破棄したナポレオンは進軍を続け、ヴィクトル・ペラン将軍率いるフランス軍が1797年2月5日にペーザロを制圧すると、翌日ナポレオンが町に足を踏み入れた(ナポレオンは2月8日ファーノに向けて発つ)。 1796年のナポレオン(アントワーヌ・ジャン=グロ画より部分)
ペーザロの行政官、法王特使、司教はいち早く逃げたが、要人と市民の多くは町に留まった。そして貴族を中心に新たな行政府が作られ、フランス軍に恭順の意を表した。それは外国支配に慣れたイタリア人の処世術でもあったが、政変を喜ぶ者も少なからずいた。ロッシーニの父ジュゼッペもその一人で、公務員の彼は進駐フランス軍の行事に参加を求められ、占領12日後の2月17日に自由の木の祭り(革命記念の植樹祭)の旗振り役を務めて6スクードの報酬を得た。革命成就を宣伝するこのイヴェントでは教皇ウルバヌス8世の像が引き倒され、宮殿から貴族の家紋が剥ぎ取られた。けれどもジュゼッペの熱狂は長く続かない。自由の木の祭りの2日後、ナポレオンはトレンティーノ条約を結んでペーザロを教皇領に移譲し、フランス軍が4月6日に撤収するとペーザロに教皇政府が復活したのだ。自由の木の植樹(J-B.ルシュール画、1790年)
困った立場に置かれたのが、ジャコビーノ(giacobino イタリアのジャコバン主義者)としてふるまったジュゼッペだった。民衆は自由の木を燃やし、フランス軍の撤収を喜んだのである。それゆえ8ヶ月後の12月13日にラッパ手と屠殺場の検察官を解雇されるまで、ロッシーニ一家が居心地の悪い思いをしたに違いない。
だが、良くも悪くも歴史は繰り返す。ジュゼッペが解雇された一週間後には、再侵攻したフランス軍がペーザロの城壁の外に迫っていたのだ。後に作成された警察調書の中で証言者たちは、ジュゼッペが仲間を引き連れ、「共和国万歳!」「圧制者たちに死を!」「未来の男爵たちの時代は終わった。もう泥棒の時代じゃない!」と叫びながら住民を叩き起こしたと供述している[19]。12月22日未明、夜陰に乗じて城門を開き、フランス軍を導いたジャコビーノの首謀者の一人がジュゼッペだった。翌23日ペーザロはフランス軍に再占領され、翌1798年3月、チザルピーナ共和国(ナポレオンがカンポ・フォルミオ条約で成立させた傀儡国家)に編入されたペーザロに、穏健派の自由主義者の貴族による新たな政府が作られた。謝肉祭に愛国者たちが太陽劇場で上演した劇《カプアの攻略(La presa di Capua)》に役者として出演したのがジュゼッペだった。4月には広場で市民たちを前に、次の決まり文句による誓いが表明された──「私こと○○は、不可侵である憲法への遵守を誓う。私は諸王の、貴族階級の、寡頭政治の政府を永遠に憎み、いかなる外国支配もけっして許容しないと誓い、自由、平等、共和国の維持と繁栄に全力を尽くすものであります」[20]。
この誓いを表明したジュゼッペは、以前にも増して大胆な行動をとり始める。自宅の外壁に「真の共和主義者、市民ヴィヴァッツァの住居」と貼り紙し、愛国的な詩に作曲し、「市民ジュゼッペ・ロッシーニ、ヴィヴァッツァ。愛国的激情にかられ、満たされ、彼の手による共和国賛歌を真の民主主義者に捧ぐ。彼に霊感を与えしは、アポッロにも自由の女神たちにも増して祖国愛なり」と書いて印刷させたのだ。6月17日、フランス共和国とチザルピーナ共和国の協定批准を祝う行事における活躍は、2日後の『ペーザロ新聞(Gazzetta di Pesaro)』に実名入りで報じられた──「かくも美しき日の暁、我らの最も優れた愛国的指導者たちは、彼らの住居の下で吹かれたトランペットの音で目を覚ました。演奏させたのは市民ヴィヴァッツァの綽名で知られる当市に雇われしトランペット奏者、素晴らしき愛国者ロッシーニである」(6月19日付)[21]。その頃ジュゼッペは軍楽隊の奏者と雑務で共和国政府から日当を得ていたが[22]、年々高騰する家賃に耐えられず、グランデ広場に面したバヴィエーラ家の建物(Palazzo Baviera)に住まいを変えていた[23]。
6歳になったジョアキーノは公立小学校に通い、元フランチェスコ修道会士ルイージ・フロンティーニ(Luigi Frontini)やニコラ・パリッチ(Nicola Paglicci)から読み書きと算数を学び、警備兵の軍楽隊でリスターロ(listaro[トライアングルまたは小太鼓の奏者])を務めて報酬を得た(1798年4月)。少年の自慢は母アンナの美しさだった。後に彼はエドモン・ミショット(Edmont Michotte, 1830-1914)に対し、「母はロマーニャの若い女性の中で最も美しい一人」「その美しさはラッファエッロの描いた聖母の中で最も清純なタイプ」「超自然の存在のように見えた」と述べている[24]。母を「聖なるマンマ(Santa mamma)」「聖母(Santa Madre)」と呼ぶジョアキーノは司祭から「聖母と呼んでよいのは天におられる聖母マリアさまただ一人」と諭され、「聖母より美しい人はこの世にいない」と言われると、「天国に行って聖母さまが本当にぼくのママよりきれいだったら、ぼくは一生泣いて暮らすよ」と答えたという。アンナはロマーニャの大衆歌をすべて記憶し、家事をするときも常に歌っていた。ジョアキーノがなにより嬉しいのは町の人たちから「ママそっくり」と言われることで、美人の母をいつも見ていたので「醜い女性に恐怖をおぼえるようになった」という。
これに先立ち、母アンナの生活にも大きな変化が生じていた。1797年4月、教皇政府の復活で立場が危うくなったジュゼッペが、美しいソプラノの声をもつ妻をオペラ歌手にしようと考えたのだ。教皇国家は何世紀にもわたって女性の舞台出演を禁じていたが、フランス軍の再侵攻でチザルピーナ共和国に編入されて女性歌手の舞台出演が可能になり、数多くの喜歌劇が上演され始めていた。
フランス軍の再占領から3日後の12月26日、アンナはペーザロ近郊アンコーナのフェニーチェ劇場(Teatro della Fenice)で上演されたパイジエッロ《宿屋(La locanda[Il fanatico in berlina])》にセコンダ・ドンナ[二番手女性歌手]としてデビューした。続いてチマローザ《滑稽な恋人たち(Gli amanti comici)》とマルティン・イ・ソレール《行儀の良い気まぐれ娘(La capricciosa corretta)》が上演されると、マリーア・アンナ・ロッシーニ(Maria Anna Rossini)の芸名で出演した。これに満足したジュゼッペはみずから興行師をかってでてペーザロで歌劇の上演を試みたが、経験不足から失敗を喫している。けれどもアンナは1798/99年謝肉祭フェッラーラの国立劇場(Teatro Nazionale)でプリマ・ドンナに昇格すると(以後アンナ・ロッシーニと名乗る)、ボローニャ、イエージ、イモラ、ベルガモ、ラヴェンナ、レッジョ・エミーリアその他の劇場にも出演し、1808年まで断続的に活動した(すべて喜歌劇への出演。別掲の出演歴参照)[25]。 舞台衣装の母アンナ
アンナは楽譜を読めず、夫がギターを弾きながら歌うのを聞いて音楽を覚えたが──イタリアでは聞き覚えで演奏する人を「オレッキアンテ(orecchiante)」と称する──ロッシーニは母がすぐに覚え、その声は「彼女の姿さながらに自然かつ表情豊かで、美しく、優しさに満ち、甘美」だったと述べている[26]。ロッシーニによれば、当時の歌手の8割がオレッキアンテだったという[27]。後に彼は、「もしもフランス軍のイタリア侵攻がなかったら、たぶん私は薬屋か油売りになっていただろう」と語ったが[28]、その運命は母がオペラ歌手となったことで開けたと言っても良い。後述するように、ロッシーニの音楽家としてのキャリアはボーイソプラノ歌手として母と共演することで始まったのだ。けれども幸せな日々は長く続かない。一家はまたしても、予期せぬ政治の荒波に翻弄されてしまうのである。
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アンナ・ロッシーニの出演歴(1797年12月~1808年秋) |
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1797/98年謝肉祭、アンコーナのフェニーチェ劇場 パイジエッロ《宿屋(La locanda)》、チマローザ《滑稽な恋人たち(Gli amanti comici)》、マルティン・イ・ソレール《行儀の良い気まぐれ娘(La capricciosa corretta)》 1798/99年謝肉祭、フェッラーラの国立劇場(テアトロ・ナツィオナーレ) マイール《秘密(Il segreto)》、ガルディ《失くしたスリッパ(La pianella perduta)》、チマローザ《寛大な敵(I nemici generosi)》 1799年夏、ボローニャのマルシーリ=ロッシ劇場 [チマローザ]《破産した興行師(L’impresario in rovina)》、[ガッザニーガ]《ドン・ジョヴァンニ(Don Giovanni)》、[ガルディ]《失くしたスリッパ(La pianella perduta)》 註:タルッフィ劇場にも出演。 1799/1800年謝肉祭、イエージのコンコルディア劇場 ポルトガッロ《移り気な才女(La donna di genio volubile)[?]》、[チマローザ]《寛大な敵(I nemici generosi)》 1801/02年謝肉祭、イモラのコムナーレ劇場 フィオラヴァンティ《田舎の女歌手たち(Le cantatrice villane)》 1802年謝肉祭、イエージのコンコルディア劇場 ポルトガッロ《変わってしまった女たち(Le donne cangiate)》 1803年謝肉祭、ベルガモのリッカルディ劇場 フィラヴァンティ《狡猾な人対狡猾な人(Il furvo contro il furvo)》、モスカ《からかわれた興行師(L’impresario burlato)》 1803年夏、イモラのコムナーレ劇場 モスカ《からかわれた興行師(L’impresario burlato)》 1803/04年謝肉祭、ラヴェンナのコムニタティーヴォ劇場 ヴァイグル《水夫の恋(L’amor marinaro)》、[ジンガレッリ?] 《カロリーナ・ソビエスキ(Carolina Sobieschi)》、[グリエルミ?] 《双子(I due gemelli)》 1804年4月22日、イモラのコムナーレ劇場 アッカデーミアの演奏会 1804年秋、レッジョ・エミーリアのプッブリコ劇場 モスカ《からかわれた興行師(L’impresario burlato)》、マイール《ケ・オリジナーリ(Che originali)》 1808年秋、バーニャカヴァッロのコムナーレ劇場 マイール《ケ・オリジナーリ(Che originali)》 註:他にも1798年春イエージ、1799年フォッソンブローネ、1800年謝肉祭ボローニャ、1800年もしくは01年ファーノ、1802年トリエステ、1805年セニガッリア、1807年ロヴィーゴの劇場に出演した可能性もある。 |
1799年6月、オーストリア=ロシア連合軍の巻き返しでフランス軍の敗走が始まると、同月30日オーストリア軍がボローニャを制圧し、ほどなくペーザロにも旧政府が復活した。同年夏、ロッシーニの母アンナはボローニャのマルシーリ=ロッシ劇場(Teatro Marsigli-Rossi)にプリマ・ドンナとして出演したが[29]、9月初めの上演後、同じ劇場でコルノ・ダ・カッチャ奏者を務めるジュゼッペが「君主に対する過去の反乱事件の最も大胆な首領の一人」として逮捕された。そして半月の尋問を終えるとその身柄はペーザロに移され、コスタンツァ城塞(Rocca Costanza)の牢獄で明日をも知れぬ日々が始まった。 コスタンツァ城塞
突然犯罪者の息子になったジョアキーノの胸中は、いかばかりであったろう。父が投獄されたコスタンツァ城砦は一家の住まいの目と鼻の先なのだ。アンナは夫の釈放をペーザロとアンコーナの有力者に働きかけたが叶わず、息子の世話を姑アントーニアと叔母ルチーアに託して歌手活動を続けた[30]。そして1790/1800年謝肉祭にイエージのコンコルディア劇場(Teatro Concordia)に出演し、同地の音楽愛好家たちから頌詩集『ペーザロ人、アンナ・ロッシーニ夫人の格別の功績に寄す(Al merito singolare della signora Anna Rossini Pesarese)』を献呈される栄誉を担った[31]。
伝記作家ラディチョッティは、ペーザロに残されたジョアキーノが「同じ年頃の仲間と徒党を組み、悪戯をしながら一日の大半を町をうろついて過ごした」と書く。家の窓から石を投げて友人に怪我をさせ、教会の聖具室に忍び込んで礼拝用のワインを飲み干すなどの悪さで祖母と叔母を困らせたのも、両親不在の寂しさが原因だろう。遊び仲間フランチェスコ・ジェンナーリ(Francesco Gennari)は、当時の思い出をこう振り返る──「私の首筋には、貴殿の投げた石の一撃で出来た傷跡がまだ残っています。その頃の私たちは聖祭用の[ワインの]壺を空にしようと、教会の聖具室に忍び込むのが好きでしたね。楽しむためではなく、世の中のあれこれにうんざりしていたのです」(ロッシーニ宛の書簡、1865年)[32]。ジョアキーノは罰としてサントゥバルド広場(現在のマミアーニ広場)の鍛冶屋ジュリエッティの店でふいご押しを命じられたが、素行は改まらなかった[33]。
やがて一家に運命が微笑む。イタリア再征を開始したナポレオンが1800年6月14日にピエモンテのマレンゴの戦いで勝利し、南下したフランス軍が7月20日にペーザロを占領して政治犯を解放したのだ。10カ月ぶりに自由の身となった父ジュゼッペは市のラッパ手に復職したが、政情が不安定なことから息子を残して妻と共にボローニャに行き[34]、同年秋のシーズンの劇場オーケストラに職を得た。そしてペーザロのコムーネから解雇通知を受け取るとジョアキーノを引き取ることにした。 ジャック=ルイ・ダヴィドが描いた1800年のナポレオン
ジョアキーノは新天地ボローニャで3人の修道士から教育を受け──ドン・インノチェンツォ(don Innocenzo)に読み書き、ドン・フィーニ(don Fini)に算数、ドン・アゴズティーノ・モンティ(don Agostino Monti)にラテン語──[35]、父にホルンと歌唱を教わった。その頃には弦楽器にも親しみ、9歳を目前にした1801年謝肉祭にファーノのフォルトゥーナ劇場(Teatro della Fortuna)のオーケストラでヴィオラ奏者を務めた記録がある(母アンナが演奏会に出演した際の出来事で、父もホルン奏者を務めたようだ)。
過去の文献はロッシーニ最初の作品を1801年3月に作曲したカンツォネッタ《粉屋の娘を望むなら(Se il vuol la molinara)》とするが(初版楽譜は1821年にリコルディ社が「ロッシーニ最初の作品」として出版)、現在は年代が疑問視され1808年以降の作と考えられている。ニューヨークのピアポント・モーガン図書館(Pierpont Morgan Library)に所蔵される自筆譜の冒頭頁の「私の愛しいヴィガノへの捧げ物(Offerta alla mia diletta Viganò, G.R)」、最終頁の署名「G.ロッシーニ/ボローニャ、1801年3月20日(G. Rossini / Bologna li 20 marzo 1801)」が後年の書き込みと思われ、被献呈者ヴィガノが《デメートリオとポリービオ》の台本作者ヴィンチェンツァ・ヴィガノなら出会いはもっと後なのである(第2章参照)。
《もしも粉屋の娘を望むなら》の自筆譜
父ジュゼッペは1801年10月31日、同地の音楽アカデミー(アッカデーミア・フィラルモーニカ・ディ・ボローニャAccademia Filarmonica di Bologna)[36]の会員に「コルノ・ダ・カッチャのプロフェッソーレ」として選ばれたが、政治的混乱は収まらず、教皇政府が復活すれば再逮捕される恐れがあることから家族を連れて故郷ルーゴに移ることにした。 ルーゴの家とそのプレート(筆者撮影)
1802年5月、ロッシーニ一家は父の故郷ルーゴに移住した。その住居は父が生まれ育ったブロッツィ地区(現在の住所はロッカ通り14番)の家──後にロッシーニが買い取り2020年に博物館「ロッシーニの家博物館Casa Museo Rossini」となる──ではなく、ポリガーロ・ネット通り(現在のマンフレーディ通り25番)のマロッキ家の建物である。ジョアキーノはここルーゴで新たな音楽教師を得た。それが彼の初等教育に影響を与えたジュゼッペ・マレルビ(Giuseppe Malerbi, 1771-1849)である[37]。聖堂参事会員のマレルビはルーゴ有数の作曲家で、自宅に鍵盤楽器の無いジョアキーノはマレルビの家のチェンバロで学び、数字低音と歌の伴奏の手ほどきを受けた(ロッシーニ少年は師のことを「ドン・ジュゼッピーノ」と呼んだという[38])。マレルビはヘンデル、バッハ、グルック、モーツァルト、ハイドンの楽譜の蒐集家で、ロッシーニはここで初めて本格的にドイツ音楽にふれる機会を得た。
ジュゼッペ・マレルビ、マレルビ家のチェンバロ
マレルビは宗教音楽の習作を通じてロッシーニに作曲の基礎も教え、現在マレルビ兄弟の名を冠した市立音楽学校(Civico Liceo Musicale Giuseppe e Luigi Malerbi)には、〈キリエ〉〈グロリア〉〈ラウダムス〉などのロッシーニ自筆を含む合計18の手書き譜が現存する。調査したパオロ・ファッブリによれば一連の手稿はロッシーニの習作をマレルビや他の人物が添削したもので、《ラヴェンナのミサ曲》(後出)の断片とは別に作曲年を1808年と特定しうる曲が含まれる[39]。教会様式で書かれたその音楽には独唱、合唱、管弦楽の基本的な書法を習得したことが読み取れ、〈ラウダムス〉に後のファルサの音楽を思わせる弦楽器のピッツィカートやファゴットのソロ、〈クオニアム〉にイングリッシュ・ホルンの名技的なオブリガートがあり、〈渓流から(De torrente)〉には後の《結婚手形》の旋律の原型が見出せる[40]。
ジョアキーノはルーゴでもさまざまな悪戯をし、ブロッツォ橋の鍛冶屋ゾーリの店でふいごの紐を引く罰を課せられた[41]。ヴィヴァッツァが最も大きな罰として思いついたのが、かまどに空気を送るふいごの紐を引っ張る姿を家族や友人たちに見せることだった。恥をかかされ、泣きながら紐を引くジョアキーノはこれに懲りてもう悪さをしないと約束したのである[42]。この話を基にベルギー人の画家フランツ・メールツ(Franz Meerts, 1836-1896)が「ロッシーニ・アンファン(Rossini enfant)」と題する水彩画を描き、1881年ブリュッセルのサロン(絵画展)に出品して高い評価を得た。オリジナルは確認しえないが、木版画による複製が1881年11月5日付の新聞『イリュストラシオン・エウロペンヌ(L'Illustration européenne)』に掲載された。
(1881年11月5日付『イリュストラシオン・エウロペンヌ』。筆者所蔵)
徐々に落ち着きを得て音楽に情熱を注ぐようになったジョアキーノは、歌唱、伴奏、作曲の基礎を身につけた。1803/04年謝肉祭にはラヴェンナのコムニタティーヴォ劇場(Teatro Comunitativo)に出演する母に同行し、マエストロ・アル・チェンバロ(maestro al cembalo オペラの声楽指揮者で歌手に稽古をつけ、上演でレチタティーヴォを伴奏する職種。ここでのチェンバロは鍵盤楽器を意味し、実際はフォルテピアノが使われた)を務めた。4月22日にはイモラのコムナーレ劇場の演奏会に少年歌手として出演し、その告知文にジョアキーノが「その若さにもかかわらず、すでに音楽の才能を実証済み」とあり、第一部の曲目に「市民ジョアキーノ・ロッシーニが衣装を着て滑稽な演技で歌ったカヴァティーナ」と書かれている。これはマルチェッロ・ベルナルディーニ《最後に人は希望を失くす(L’ultima che si perde è la speranza)》のアリアで、演奏会の締め括りに同じオペラの二重唱を母と歌った。父ジュゼッペも妻の出演をサポートし、各地の劇場オーケストラで金管楽器奏者を務めた(1802~1807年にイモラ、ルーゴ、フォルリ、レッジョ、ファエンツァの上演に関与した記録がある)。 1804年イモラの演奏会告知
息子の音楽的成長に驚いた父ジュゼッペは、ルーゴからボローニャへの再移住を決意した。ローマに次ぐ教皇国家第二の都市ボローニャはマントヴァやフィレンツェの文化的影響を受け、モンテヴェルディと同世代の作曲家ジローラモ・ジャコッビ(Girolamo Giacobbi, 1567-1629)が1610年にボローニャ初の本格的オペラ《アンドローメダ(Andromeda)》を初演するなど、音楽劇の発展にも寄与していた。18世紀には著名なカストラートのアントーニオ・マリーア・ベルナッキ(Antonio Maria Bernacchi, 1685-1756 ボローニャ生)が歌唱学校を開き、ナポリと並ぶオペラと声楽の重要拠点となっていた。
1804年11月30日、ボローニャの音楽アカデミーが音楽学校「リチェーオ・フィラルモーニコ(Liceo filarmonico現在の名称はG. B. マルティーニ音楽院。以下、音楽学校とも記す)」を開校すると、ロッシーニ一家はほどなくマッジョーレ通り284番の建物の2階に住いを得て、ジョアキーノはコムナーレ劇場(Teatro Comunale)のマエストロ、ジュゼッペ・プリネッティ(Giuseppe Prinetti)からスピネットを学んだ。後にロッシーニはプリネッティが変人で、リキュールの製造者でもあったがベッドを持たず、夜はマントにくるまって路上で玄関の角にもたれて立ったまま眠ったと語っている。そして朝早く生徒を叩き起こしてレッスンを始めてもすぐに眠ってしまうので、ジョアキーノは家に戻ってひと眠りしてから先生を起こし、「課題はうまく演奏できました」と言ってその日のレッスンを終えたという[43]。親指と人差し指だけで音階を弾かせたとも語っているがこれはロッシーニの冗談と思われ、父ジュゼッペは1833年に執筆した覚書の中でジョアキーノがとても優秀なマエストロのプリネッティに師事したのは1年間と短期間だったが、難しいピアノ曲や管弦楽伴奏の協奏曲を弾けるようになったと記している[44]。ノヴァーラ出身のプリネッティは1787年秋にボローニャのマルシーリ・ロッシ劇場、1788年にコムナーレ劇場のマエストロ・アル・チェンバロを務めていた。 リチェーオ・フィラルモーニコの入口
同じころジョアキーノは画家フィリッポ・ガルガッリ(Filippo Gargalli)の妻でパリ出身のジョヴァンナ・カラージュ(Giovanna Carage, ?-1832)からフランス語を学び始めた。夫妻の美しい娘(Carlotta Gargalli, 1788-1840)も絵描きだったのでジョアキーノが「絵の勉強のために音楽の勉強をやめる」と言い出すと、父ジュゼッペはまたしても息子を鍛冶屋に預けて働かせ、学友たちの笑いものして絵描きになるのを断念させたという[45]。鍛冶屋の名前はギノルフィ(Ghinolfi)、ジョアキーノはこの3度目の懲罰で音楽家になると決め、著名な作曲家・教師スタニズラオ・マッテーイ(Stanislao Mattei, 1750-1825)の弟子アンジェロ・テゼイ(Angelo Tesei, 1769-1825)の下で歌を学び始めた[46]。そして1804年謝肉祭に母がラヴェンナのコムニタティーヴォ劇場に出演した際に同行したジョアキーノは、病気のブッフォ歌手の代役を務めて歌と演技で好評を得た[47]。以後母が出演する演奏会で歌い、報酬を得るようになった。
1805年5月19日、ボローニャのコルソ劇場(Teatro del Corso)がパーエル作曲《ソフォニスバ(Sofonisba)》で開場した。これは1802年9月5日夜の火災でフォルマリアーリ劇場(Teatro Formagliari)が焼失したのを受け、富裕な地主ジュゼッペ・バディーニ(Giuseppe Badini)がボローニャの建築家フランチェスコ・サンティーニ(Francesco Santini, 1763-1840)に建設させた4層のボックス席を備えた新古典主義様式の私設劇場である。コルソ劇場はコムナーレ劇場のライヴァルとなり、同地の貴族や富裕層は両劇場にボックスを持って観劇したという[48]。13歳のジョアキーノは1805年秋にこの劇場で上演されたパーエル《カミッラ、または地下室(Camilla, ossia il Sotterraneo)》(1799年ヴィーン初演)にアドルフォ役で出演して絶賛され、将来を嘱望された──「ボローニャ人たちは、このときからロッシーニがイタリアの最も有名な歌手の一人になると予言しました」(リゲッティ=ジョルジ『かつて歌手だった女の返書』1823年)[49]。
同年夏、ロッシーニはセニガッリアのコンドーミニ劇場(Teatro Condomini)のマエストロ・アル・チェンバロを務めた。後に彼は、自分に起きた事件を次のように述懐している。
私は13歳のとき、セニガッリアでオペラ・シーズンのマエストロ・アル・チェンバロとして雇われていました。そこで私は、ひどく歌うわけではないけれどまるで音楽的じゃない女性歌手に出会いました。ある日彼女は、アリアの中で和声的な限度を超えて大胆なカデンツァを歌いました。私は彼女に、管弦楽が保っている和声をある程度考慮すべきだと説明を試み、彼女もある時点までこの意見の正しさを受け入れているようでした。でも上演中に彼女は新たに自分の霊感にかられ、私の笑いが止まらなくなるカデンツァを歌ったのです。そして平土間でも大笑いが起き、彼女は激怒しました。彼女は自分のパトロン、この町を代表する劇場の経営者でセニガッリアにたくさん資産を持つヴェネツィア人の大金持ちに不平を訴えました。[中略]怒った紳士は私に、「一流の女性を嘲笑するなら、きみを牢獄にぶち込むぞ」と言明しました。彼はそうできたでしょうが、私が怯えずにいると風向きが変わりました。私が和声の性質の不備を説明し、自分の無実を納得させると、彼は私を牢獄にぶち込む代わりに大いに私に関心を示し、こう言ってくれたのです──「もしもきみが将来オペラを書くほど進歩したら、1作書くようきみに依頼するよ」 (ヒラーへの述懐)[50]
ロッシーニはプリマ・ドンナとそのパトロンの名前を挙げていないが、ラディチョッティは当時セニガッリアのプリマ・ドンナがアデライデ・カルパーノ(Adelaide Carpano)、興行師がフランチェスコ・カヴァッリ伯爵(Francesco Cavalli)であることからその名前を交えて再話し[51]、後世にロッシーニのデビューにカヴァッリ伯爵が関与したとの誤謬を流布させてしまった。
1806年1月25日、リチェーオ・フィラルモーニコへの入学を許されたジョアキーノは4月4日聖金曜日に同校で演奏されたマッテーイのオラトリオ《キリストの受難(La passione di Cristo)》でコントラルトのマグダラのマリア役を歌った。この学校にはピアノフォルテ、オーボエ、ヴァイオリン、チェロ、歌唱、対位法(作曲)の六つのクラスがあり、それぞれの教師は関連する楽器(コントラバス、ヴィオラ、コルノ・イングレーゼ、オルガン)も指導する義務を負っていた。市立の音楽学校でもある同校の授業は11月初めから6月末まで週3回の午前中に約50人の学生を対象に行われたが、初心者ではなくすでに専門的な教育を受けた者が入学を許された[52]。
同校の記録からロッシーニの各クラスへの出席状況が判明しており[53]、1806年4月15日からヴィンチェンツォ・カヴェダーニャ(Vincenzo Cavedagna, 1739-1824)のチェロのクラスに同月中に5回出席しただけでその後1年間は授業を受けた記録が無い。これは美しい声をかわれて教会や演奏会で歌う機会が多かったことも関係し、6月24日には歌の才能を満場一致で認められてボローニャ音楽アカデミー(Accademia filarmonica di Bologna)の会員として「歌のプロフェッソーレ(professore di canto)」の称号を得て、7月31日に女性作曲家マリーア・ブリッジ・ジョルジ(Maria Brizzi Giorgi, 1775-1811. アッカデーミア・ポリムニアカAccademia Polimniacaの創設者)の催した演奏会に歌手として出演した。続いて8月8日に音楽学校の年度末試験で同級生と一緒にアンドレーア・ネンチーニ作曲の二重唱を歌ったが、その後はセニガッリア、ルーゴ、フォルリの劇場でマエストロ・アル・チェンバロを務め、同年秋季フォルリのコムナーレ劇場ではヴァイグル《水夫の恋(L’amor marinaro)》に挿入するレチタティーヴォとアリア〈愛しい人よ、あなたは(Cara, voi siete quella)〉をテノール歌手アントーニオ・キエス(Antonio Chies)のために作曲した[54]。現時点で1806年の作曲と認定しうるのはこのアリアが唯一である[55]。
音楽学校では2年目の1807年5月1日から前記マッテーイが教師を務める対位法のクラスに在籍し、2カ月間に19回レッスンを受けたが、その後は学業そっちのけでアルバイトに励んだ。母が喉を患って歌えなくなり、働いて家計を助けなければならなかったのだ[56]。15歳にして劇場のレチタティーヴォ伴奏で一晩に6パオロの報酬を得たジョアキーノは、1807年6月からマエストロ・アル・チェンバロを務めたファエンツァのコムナーレ劇場でP.A.グリエルミ《風変わりな女中(La serva bizzara)》の上演に携わるなど職業音楽家としての仕事を数多くこなしていた。
それゆえ学校の記録で確認できる授業への出席は限定的で、1807年11月16日から在籍したジョヴァンニ・カッリスト・ザノッティ(Giovanni Callisto Zanotti, 1738-1817)のピアノフォルテの授業も1カ月しか出席せず、ファーノやペーザロでの仕事を優先した。音楽学校の生徒には、歌、ヴァイオリン、木管楽器の勉強も不可欠だったが、少年時代から父にホルンを教わり、入学前にピアノとヴァイオリンに習熟し、歌手として活動したジョアキーノはそうしたクラスに在籍しなかった。ちなみに声楽教師ロレンツォ・ジベッリ(Lorenzo Gibelli)はカストラートのクレシェンティーニやテノール歌手バビーニ(後出)を教えた名教師でオペラも作曲したが、89歳と高齢だった(1718年生)。最も数多く出席したのは対位法の授業で、1809年11月22日までに82回出席した記録があるものの、フーガの添削レッスンを時間の無駄と思ったジョアキーノは師マッテーイに「その後に何を勉強するのですか?」と質問して「グレゴリオ聖歌(plein-chant)とカノン」と言われ、いつまで学習が続くか問うて「2年間」と返事をされ、「ぼくはそんなに長く待てません」と抗議したという[57]。
スタニズラオ・マッテーイ
その頃には優れたテノール歌手マッテーオ・バビーニ(Matteo Babini, 1754-1816 ベルリーン、サンクト・ペテルブルク、ワルシャワ、ロンドン、マドリード、リスボンで活躍し、コルソ劇場の音楽監督となる)に師事し、歌の技術に磨きをかけたジョアキーノは文学者の教えも受け、ダンテ、アリオスト、タッソの文学に親しんだ。
作曲家としての活動が本格化するのは16歳を迎えた1808年で、6月2日には学友たちと共作したミサ曲をボローニャのサン・ルーカ教会祈祷所(Santuario della Madonna di San Luca)で初演した(通称《ボローニャのミサ(Messa di Bologna)》、自筆譜はボローニャの市立音楽図書館所蔵)。ロッシーニが作曲したのは〈クリステ・エレイソン(Christe eleison)〉(ヘ長調。2テノール、バス、管弦楽)、〈ベネディクタ・エト・ヴェネラビリス(Benedicta et venerabilis)〉(ニ長調。2テノール、バス、管弦楽)、〈クイ・トリス(Qui tollis)〉(変ホ長調。ソプラノ独唱、ホルンのオブリガート、管弦楽。1808年以前の作曲と推測)である。続いて6月24日にラヴェンナのポルトの聖マリーア教会(La basilica di Santa Maria in Porto)で初演されたと推測される通称《ラヴェンナのミサ(Messa di Ravenna)》がある(2テノール、バス、男声合唱、管弦楽)[58]。その自筆譜はラヴェンナとルーゴに現存するが、〈キリエ(Chirie)〉(変ロ長調)、〈グロリア(Gloria)〉(ニ長調)、〈クレード(Credo)〉(ハ長調)のみで〈グロリア〉は〈クイ・トリス〉~〈クイ・セデス〉のセクションを欠き、2024年成立のクリティカル・エディションはルーゴに現存するテノール独唱の〈クイ・トリス〉で補完している[59]。
8月11日には母校でカンタータ《オルフェーオの死によせるアルモニーアの嘆き(Il pianto d’Armonia sulla morte di Orfeo)》(テノール、男声合唱と管弦楽)を初演して対位法技能賞のメダルを受けた。これはロッシーニ最初のカンタータで、ボローニャ在住の詩人ジローラモ・ルッジャ(Girolamo Ruggia, 1748-1823)のテキストに作曲された。エウリディーチェを取り戻せずバッカスの巫女たちに八つ裂きにされて死んだオルフェーオをアルモニーアとニンフたちが追悼する内容で、序曲、男声合唱曲、合奏伴奏のレチタティーヴォ、二つのアリアからなり、2種のヴァージョンのある自筆譜には師マッテーイが添削した痕跡がある。序曲(実際は序奏)は疾風怒濤様式のやや旧弊な様式だが、終曲の合唱付きアリア〈神々の気高い喜びに(Almo piacer de’ Numi)〉における木管楽器のオブリガートと抒情的な旋律に初期のロッシーニの個性が聴き取れる。
1808年8月11日の演奏会プログラム 《オルフェーオの死によせるアルモニーアの嘆き》自筆譜
ラヴェンナのG.ヴェルディ私立音楽学校図書館に所蔵される筆写譜を唯一の典拠とする二つのシンフォニアも1808年の作曲と推測される。その一つ《修道院のシンフォニア(Sinfonia del Conventello)》(ニ長調)はタイトル頁に「アゴスティーノ・トリオッシ氏のために修道院で書かれたマエストロ・ジョアキーノ・ルッシーニ氏のシンフォニア」(Sinfonia / Scritta al Conventello per il Sig.r Agostino Triossi / Del Sig.r Maestro Gioachino Russini [sic])と書かれ、パセティックな序奏部(ニ長調[ニ短調]、3/4拍子、ラルゴ)と軽快な主部(ニ長調、2/2拍子、アレグロ)からなり、主部の第一主題は後に歌劇《ブルスキーノ氏》(1813年)序曲に再使用される。もう一つの《コントラバスのオブリガート付きシンフォニア(Sinfonia obbligata a contrabbasso)》(ニ長調)は筆写譜のタイトル頁に「コントラバスのオブリガート付きシンフォニア(Sinfonia / Del Sig.r Maestro Rossini obbligata a Contrabasso)」とあり、序奏部(ニ長調、3/4拍子、ラルゴ)と主部(ニ長調、2/2拍子、アレグロ・コン・スピーリト)からなるが、コントラバスのオブリガートやソロは一切使われず題名と内容が一致しない。どちらもラヴェンナ在住のアマチュアのコントラバス奏者アゴスティーノ・トリオッシ(Agostino Triossi, 1781-1822)との交遊で作曲したものと推測される[60]。学生時代のロッシーニのシンフォニアは基本的に序奏と主部から成るが、これは19世紀初頭のイタリアで一般化した構成である。
かつて12歳で作曲したと考えられた6曲の弦楽四重奏曲《六つの四重奏ソナタ[六つの弦楽ソナタ](Sei sonate a quattro)》も、このときラヴェンナのトリオッシの別荘で書かれたものと推測されている。編成は二つのヴァイオリン、チェロ、コントラバスと変則的で、第1番(ト長調)、第2番(イ長調)、第3番(ハ長調)、第4番(変ロ長調)、第5番(変ホ長調)、第6番(ニ長調)はそれぞれ急~穏~急の三楽章からなる。音楽は純粋なソナタ形式を採らず主題とその自由な発展に委ねる点でサンマルティーニやボッケリーニらイタリア室内楽の系譜に連なり、旋律の瑞々しさ、名技性への憧れ、機知と抒情性に若きロッシーニの才能が聴き取れる。トリオッシへの配慮からか、コントラバスのパートも重視して四つの楽器を対等に活躍させている。興味深いのは第6番第3楽章(嵐Tempestaと称される)の自然描写で、後の《試金石》や《セビーリャの理髪師》に使われる嵐の音楽の原型をなす。
自筆譜は失われたが、1930年代にワシントンの議会図書館で発見された筆写譜の完本に晩年のロッシーニの筆跡で次のコメントが書かれている[61] ──「第一ヴィオリーノ[ヴァイオリン]、第二ヴィオリーノ、ヴィオロンチェッロ[チェロ]、コントラバッソ[コントラバス]のパート譜。この六つのひどいソナタは私がまだ通奏低音のレッスンすら受けていない少年時代に、パトロンでもあった友人アゴスティーノ・トリオッシの[ラヴェンナ近郊の]別荘で作曲したものである。すべては3日間で作曲・写譜され、コントラバッソのトリオッシ、[彼の従兄弟で]第一ヴィオリーノのモリーニ、その弟のヴィオロンチェッロ、そして私自身の第二ヴィオリーノによって実にへたくそに演奏されたが、実を言えばその中で私が一番まともであった」
この筆写譜はパート譜の合冊で、それぞれのタイトル頁に第三者の筆跡で「12歳のジョアキーノ・ロッシーニ氏が1804年にラヴェンナで作曲した六つのソナタ作品(Opera di sei Sonate / Composta / Dal Sig.r Gioachino Rossini / in età d’anni XII. / in Ravenna, l’Anno 1804)」と書かれている[62]。従来文献はこの記載を基に1804年12歳の作としたが、2014年に成立した全集版の校訂者マッテーオ・ジュッジョーリ(Matteo Giuggioli)は「età d’anni XII[12歳]」のXIIが最初に書かれたXVI[16]」の、年号「Anno 1804」の1804が最初に書かれた1808のロッシーニ自身による周到な書き変えで、パート譜の用紙の透かしも1808~12年のロッシーニのボローニャ初期作品の筆写譜と同じであることから1808年に16歳で作曲したと修正した。題名も筆写者による「Quartetto / i(四重奏曲)」を嫌ったロッシーニが「Sonata / e(ソナタ)」に書き換え、強弱記号やクレシェンドの文字もロッシーニによる後日の加筆と認定されている。
手稿譜におけるロッシーニ自筆の添え書き第1番のパート譜
一連の書き変えは誤謬の訂正ではなく、ロッシーニが自分を神童とみせるための作為と思われ、「私がまだ通奏低音のレッスンすら受けていない少年時代に」「3日間で作曲・写譜された」とのコメントも偽装を補強するための捏造と見なしうる。それでもこの作品がジョアキーノの早熟な才能の証となる名作であることに変わりはない。
同年12月23日には特別に作曲した《シンフォニア、ニ長調(Sinfonia in Re maggiore)》をボローニャのアッカデーミア・ポリムニアカで初演し、同地の新聞で心地よく斬新な音楽を高く評価されている(12月30日付『イル・レダットーレ・デル・レーノ(Il Redattore del Reno)』)。これはボローニャの市立音楽図書館(Bologna,Civico Museo Bibliografico Musicale)とラヴェンナの大司教文書館(Ravenna, Archivio Arcivescovile)に所蔵される筆写譜[パート譜と総譜]が唯一の典拠の作品で、序奏部(ニ長調、4/4拍子、アンダンテ・ノン・タント)と主部(ニ長調、2/2拍子、アレグロ)からなり、アレグロの主題は後に《幸せな間違い》(1812年)序曲に再使用される[63]。他にも後年ロッシーニがヒラーに、学生時代に《魔笛》の序曲を知って同じような曲を作って試演したが、出来が悪く破棄したと述べた序曲もある[64]。
翌1809年には1月から3月にかけてボローニャのコムナーレ劇場でマエストロ・アル・チェンバロを務め、パーエル《放浪者たちの安宿(La locanda dei vagabondi)》、サルティ《無礼な嫉妬(Le gelosie villane)》、チマローザ《ジャンニーナとベルナルドーネ(Giannina e Bernardone)》の上演に携わった。同年8月28日[65]には音楽学校の学年修了試験に作曲した《幾つかのオブリガート楽器付き変奏曲(Variazioni a più istrumenti obbligati)》(ヘ長調)と《シンフォニア、変ホ長調(Sinfonia in Mi♭ maggiore)》を初演した(どちらも自筆譜が失われ、ボローニャの市立音楽図書館所蔵の筆写譜のみ現存)。
《幾つかのオブリガート楽器付き変奏曲》の編成は五つのコンチェルタート[オブリガート]楽器(クラリネット、ヴァイオリンI・II、ヴィオラ、チェロ)と伴奏管弦楽で、序奏(ヘ長調、2/4拍子、アンダンテ。ソステヌート)とオブリガート楽器による自由な形式の主題と変奏(アンダンティーノ)からなる。主題と変奏は、ヴァイオリンII~ヴァイオリンI~管弦楽のリトルネッロ~チェロ~ヴァイオリンII~リトルネッロ~コントラバス~リトルネッロ~クラリネット~リトルネッロ~ヴァイオリンIと続き、短い終結部で閉じられる。変奏形式の楽曲は学校の作曲課題として一般的な形式だが、ロッシーニは晴れやかな独奏楽器と総奏リトルネッロの対比が巧みで、後の喜歌劇におけるヴォードヴィル形式の原型が認められる。
《シンフォニア、変ホ長調》は序奏部(変ホ長調、4/4拍子、アンダンテ・マエストーゾ)と主部(変ホ長調、2/4拍子、アレグロ・ヴィヴァーチェ)からなる。その音楽は《結婚手形》(1810年)序曲の原曲に該当し、アレグロ主部の第二主題、それを受けてのホルン独奏と木管楽器の応答など、明らかにそれ以前のシンフォニアよりも洗練され、16歳にして個性が確立されていることが判る。
秋にはクラリネットの妙技を際立たせた《クラリネット変奏曲(Variazioni a clarinetto[Variazioni per clarinetto e orchestra])》を作曲した(自筆譜消失。ハ長調、クラリネット独奏と管弦楽)[66]。これは序奏(ハ長調、4/4拍子、アンダンテ)、主題と変奏(ハ長調、3/4拍子、モデラート)からなり、変奏の主題はそれぞれ反復を含む8+8小節からなり、主題を用いた8小節の管弦楽によるリトルネッロを伴う。変奏は三つで、第一変奏は主題を三連音符、第二変奏は主題を16分音符に置き換えてクラリネットの名技性を際立たせる。第三変奏は主題の短調への置き換えと長調の華麗な旋律を対比させ、終結部には後のオペラの音楽の片鱗も聴き取れる。
11月2日にはボローニャのアッカデーミア・デイ・コンコルディ(Accademia dei Concordi 1808年に作曲家トンマーゾ・マルケージが設立した音楽愛好家の団体)の音楽監督(マエストロ・ディレットーレ・デッラ・ムジカ)に任命された[67]。そして同月22日に対位法のレッスンを受けたロッシーニは音楽学校での勉強を放棄し[68]、1809/10年謝肉祭期間にフェッラーラのコムナーレ劇場(Teatro Comunale)のマエストロ・アル・チェンバロを務めるべくボローニャを後にした[69]。フェッラーラではオルランディ《キオッジャの執政官(Il podestà di Chioggia)》[70]に出演するテノール、ラッファエーレ・モネッリ(Raffaele Monelli, 1782-1859)のために挿入アリア〈甘いそよ風(Dolci aurette)〉(テノールと管弦楽)を作曲した。なお、従来文献が「1809年以前」「1810年以前」とした《ミラーノのミサ曲》は推定年が1812~1813年に変更されたので第3章にゆずり、1809年の作とされた《リミニのミサ曲(Messa di Rimini)》(筆写譜のみが典拠)は偽作と判断して本書では扱わない。
この段階で職業オペラ作曲家ロッシーニはまだ存在していない。けれどもここまで彼はオペラの上演に携わる職業音楽家としての経験を充分に積み、器楽曲、シンフォニア、宗教曲、カンタータ、アリア、二重唱、四重唱など、すべてのジャンルの作曲に手を染めていた。マエストロ・アル・チェンバロの経験も豊富で演奏会の指揮者でもあったから人気のオペラやオラトリオを熟知し、優れた歌手たちが舞台でどう歌い演じるのか理解していた。オペラのマエストロは手書きの総譜を見ながら即興的に、必要な楽器のパートも採り入れてピアノで伴奏したから、作曲家ごとに異なる管弦楽法を学ぶことができた。母が出演する作品はもちろん、みずから歌手として上演に参加した作品も稽古段階から音楽を知り、全貌を知ることができた。そうした作品にヴァイグル《水夫の恋》、パーエル《カミッラ》、マッテーイ《キリストの受難》があり、マエストロ・アル・チェンバロとして全曲の総譜を知りえた作品にパーエル《放浪者たちの安宿》、サルティ《無礼な嫉妬》、チマローザ《ジャンニーナとベルナルドーネ》、ハイドン《天地創造》がある。これとは別に、ボローニャの音楽愛好家が所有するハイドンの弦楽四重奏やモーツァルト《フィガロの結婚》《魔笛》の楽譜を借りて気に入った曲を写譜した。後にミショットに語ったところでは、最初に旋律だけを書き写してこれに自分なりの伴奏をつけ、その後にモーツァルトやハイドンの管弦楽伴奏と比較し、彼らのそれを写譜に書き込んで完成させたという(ミショット『個人的回想』1906年)。学校では対位法の学習が中心でも、ロッシーニはこのようにしてドイツ古典派の最良の音楽と管弦楽法を学習したのである(これにはモーツァルトとハイドンの交響曲も含まれる)。そんなドイツ音楽かぶれの少年をからかい、「ドイツ坊や(テデスキーノIl Tedeschino)」と呼んだのが師マッテーイだった(Azevedo, p.43)。マルティーニ神父(Giovanni Battista Martini, 1706-1784)の愛弟子だったマッテーイは聖フランチェスコ教会の楽長を務めるかたわら新設された音楽学校の実質的な運営者となり、マルティーニ神父が蒐集した膨大な音楽書、楽譜、楽器を収蔵する資料庫の管理責任者でもあった。
かくして18歳を目前にしたジョアキーノがオペラ作曲家となる条件が整う。あとは運命の巡り会わせが彼にデビューのチャンスをもたらすのを待つばかりであった。
[1] 簡略なペーザロの歴史はペーザロ市のサイトに見出せる(Pesaro: una storia antica [Comune di Pesaro])。
https://archive.is/20140424184050/http://www.turismopesaro.it/index.php?id=1814
[2] イタリア国立統計研究所による2018年12月31日時点でのペーザロの人口は94,969人。
[3] Pierpaolo Bellucci, La Chiesa pesarese nel periodo napoleonico. [La diocesi di Pesaro nel periodo napoleonico – Ciclopress] http://www.ciclopress.it/img/La%20diocesi%20di%20Pesaro%20nel%20periodo%20napoleonico.pdf (p.1)
[4] かつて1758年10月3日生まれとされたが現在は否定されている(誤謬を引き継ぐ現代のロッシーニ伝もある)。
[5] ジュゼッペの兄弟姉妹にジュゼッペ・アントーニオ(Giuseppe Antonio, 1758-1759)、ジャコマ・ジューリア(Giacoma Giulia, 1759-1760)、ジューリア・マリーア(Giulia Maria, 1760-?)、双子のジュゼッペ・ヴィンチェンツォ(Giuseppe Vincenzo, 1767-1770)とジューリア(Giulia, 1767没)、ジャコマ・フローラ(Giacoma Flora, 1772- ? )がいたが、多くは早く亡くなり、ロッシーニの父となるジュゼッペと叔母だけが成人した。以下、父ジュゼッペと親族に関するドキュメントはJosef Loschelder, L’infanzia di Gioacchino Rossini. Conferme e completamenti dello scritto dell’Albarelli. (in Bollettino del Centro rossiniano di studi della Fondazione Rossini di Pesaro, Anno 1972. n.1) pp.45-63及び同L’infanzia di Gioacchino Rossini. Sulle tracce dell’Albarelli – Conferme, Lacune, Completamenti. (in Bollettino del Centro rossiniano di studi della Fondazione Rossini di Pesaro, Anno 1972. n.2) pp.33-53、親族に関する基本情報はPaolo Fabbri, I Rossini a Pesaro e in Romagna(in Rossini 1792-1992 Mostra storico-documentaria.[a cura di Mauro Bucarelli], pp.53-70)及びPaolo Fabbri, I ricordi rossiniani di Luigi Crisostomo Ferrucci, in Belliniana et alia musicologica. Festschrift für Friedrich Lippmann zum 70, Wien, Edition Praesens, 2004. pp.104-130から抽出。なお、19世紀に出版されたロッシーニの家系図(1864年フィレンツェ)は信憑性が低く、採用しない。
[6] フェッルッチ『ローマのアルバム(Album di Roma)』(1860年3月24日)は、コティニョーラの塔の鐘に刻まれた、上部に3つの星、下部にナイチンゲールのとまるバラの花を握る図柄のある紋章をルッシーニ/ロッシーニ家のものとし、イラストを掲載している(Antonio Zanolini, Biografia di Gioachino Rossini, Nicola Zanichelli, Bologna, 1875. pp.1-2. n.2.及びGiuseppe Radiciotti, Gioacchino Rossini. Vita documentata. Opere ed influenza su l’arte,vol.I, Arti Grafiche Majella, Tivoli, 1927. p.5. n.(1) けれども確証がなく、割愛する。
[7] 自治都市や都市共同体もしくは市町村行政体を意味するが、本稿では便宜上「市」の訳語も用いる。
[8] 現在のロッシーニ劇場は1818年の再建で新劇場(Teatro Nuovo)と称され、ロッシーニの《泥棒かささぎ》で開場した。
[9] 1798年以降に新たに娘マリーア(Maria Guidarini)が生まれる。
[10] 妹アンヌンツィアータは1788~89年の警察記録に娼婦とあるが、男女関係をめぐるトラブルで事件になったようだ。
[11] Fabbri, I Rossini a Pesaro e in Romagna, p.53他に準拠。Gioachino Rossini, Lettere e documenti, vol.I, 29 febbraio 1792 - 17 marzo 1811, a cura di Bruno Cagli e Sergio Ragni, Pesaro, 1992. p.1. n.4は24日とし、これを踏襲した文献もある。
[12] 噂を基に「ロッシーニの父親はジュゼッペではない」と断定的に書く者もいるが憶測の域を出ない。
[13] 1970年代までの印刷楽譜と文献ではしばしばGioacchino(ジョアッキーノ)と書かれた、ロッシーニ財団の全集版(1979年刊行開始)とロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル(1980年開始)においてGioachino(ジョアキーノ)で統一された。本書では引用と文献に原著表記を踏襲するので文中と註に双方の表記が混在する。
[14] Rossini, Lettere e documenti.,vol.I, p.1の転記でAnnaに続いてGuidariniとあるのは誤り。
[15] Alexis Azevedo, G Rossini, Sa vie et ses œuvres, Heugel, Paris, 1864. p.15.
[16] ロッシーニの生家の歴史と修復についてはFranco Panzini, La casa natale di Rossini.(in Bollettino del Centro rossiniano di studi della Fondazione Rossini di Pesaro, Anno XXVIII, 1988, nn.1-3), pp.77-86及びロッシーニの家の目録(La casa di Rossini, Catalogo del museo.,a cura di Bruno Cagli e Mauro Bucarelli, Edizioni Panini, Modena, 1989)参照。
[17] ジョアキーノ・ロッシーニの生家La casa natale di Gioachino Rossiniとも称される
[18] 太陽劇場では1790年春~97年謝肉祭に次のオペラが上演された──1790年謝肉祭(1月):ビアンキ《誘拐された田舎娘(La villanella rapita)》、ファブリーツィ《必要に法は無用(Necessità non ha legge)》。同年春(4-5月):ベルナルディーニ《ひょうきんな伯爵(Il conte di bell’umore)》、チマローザ《期待はずれの企み(Le trame deluse)》。同年秋(9月):スコラルト《イェフテの誓い(Il voto di Jefte)》。1791年謝肉祭(1月):グリエルミ《高貴な羊飼いの娘(La pastorella nobile)》、ロブスキ《去勢された父子(Castrini padre e figlio)》、ファブリーツィ《かつがれた2人の城主(I due castellani burlati)》。1792年謝肉祭(1月):チマローザ《絶望した夫(Il marito disperato)》、アンフォッシ《幸せな旅人たち(I viaggiatori felici)》。同年春(4月):作曲者不詳《奥様女中(La serva padrona)》、アンフォッシ《吝嗇(L’avaro)》。同年秋(9月):《ダヴィッデ(Davidde)》。1794年謝肉祭(1月):チマローザ《絶望した夫(Il marito disperato)》、パイジエッロ《2人の伯爵夫人(Le due contesse)》、作曲者不詳《恋は男を盲目にする(Amore fa l’uomo cieco)》。1795年謝肉祭(1月):作曲者不詳《アンティゴノ(Antigono)》、ベルナルディーニ《最後に人は希望を失くす(L’ultima che si perde è la speranza)》。同年秋(9月):パイジエッロ《奥様女中(La serva padrona)》、同《ニーナ、恋狂い(Nina la pazzia per amore)》。1796年謝肉祭(1月):パイジエッロ《ニーナ、恋狂い(Nina la pazzia per amore)》、同《空想の哲学者(I filosofo immaginari)》。1797年謝肉祭(1月):ガルッピ《女悪魔(La diavolessa)》、カルーゾ《試みの恋人たち(Gli amanti alla prova)》、同《元気のいい旅籠の女主人(L’albergatorice vivace)》。同年秋(9月):スコラルト《シザーラ(Sisara)》、ジンガレッリ《放蕩息子(Il figliol prodigo)》(出典:Luoghi e repertorio del teatro musicale nelle Marche [a cura di Marco Salvaranti e Flavia Emanuelli], Regione Marche-Fratelli Palombi Editori, 1999. pp.105-107)
[19] Fabbri, I Rossini a Pesaro e in Romagna, pp.55-56.
[20] Loschelder, L’infanzia di Gioacchino Rossini.ti, pp.33-34.
[21] Ibid. p.35.
[22] ジュゼッペがチザルピーナ共和国から得た報酬は3年間で約90スクード。詳細はIbid, pp.35-36.
[23] 1797年にバヴィエーラ家の建物に移ったとき、ジュゼッペの妹フローラはペーザロの床屋と結婚して同居していなかった。
[24] 以下、ロッシーニが母アンナや自分の少年時代について語った内容はEdmont Michotte, Rossini e sua Madre. Ricordi della infanzia (Dalle frequenti conversazioni che ebbi con lui). in Cronaca Musicale, anno XVII, n.5, Pesaro, 1913. pp.112-120より(Bollettino del Centro rossiniano di studi della Fondazione Rossini di Pesaro, Anno XLIV 2004. pp.139-146に再掲載)。
[25] アンナの出演詳細はPaolo Fabbri, Minima rossiniana: ancora sulle carriere dei Rossini. (in Bollettino del Centro rossiniano di studi, Anno 1987, Fondazione Rossini, Pesaro, 1988). pp.5-23参照。1802年謝肉祭のイエージ、1803年謝肉祭のベルガモについては他の文献に基づいて追加した。
[26] Michotte, Rossini e sua Madre. p.142.
[27] フェルディナント・ヒラーによる聞き書き。Ferdinand Hiller, Plaudereien mit Rossini.,1855. (in Bollettino del Centro rossiniano di studi, Anno XXXII, Fondazione Rossini, Pesaro, 1992.にドイツ語原文とイタリア語訳を掲載) 以下、該当する章を示す。
[28] Azevedo, p.21.
[29] このとき両親はジョアキーノをペーザロの叔母のもとに残してボローニャで活動したが、ジョアキーノも同行したとする文献もある(a cura di Luigi Verdi, Rossini a Bologna, note documentarie in occasione della mostra ’Rossini a Bologna’, Pàtron Editore, 2000. p.9)。
[30] アゼヴェドは、アンナが自分の不在の間の息子の世話を信頼している豚肉屋に委ねたとする(Azevedo, p.22)。
[31] Radiciotti, Gioacchino Rossini. vol.I, p.13.
[32] Tommaso Casini, Rossini in patria (in Nuova Antologia di Scienze, Lettere ed Arti, Terza serie, Volume XXXVIII, Direzione della Nuova Antologia, Roma, 1892. pp.109-127), p.118.
[33] Ibid, p.15.
[34] ペーザロの政局は流動的で、1800年12月6日にオーストリア軍が入城し、翌年1月25日にフランス軍が復帰するなど目まぐるしく変わり、城壁の外では敗残兵たちが盗賊となっていた。
[35] Radiciotti, Gioacchino Rossini. vol.I, p.14. アゼヴェドはドン・アゴズティーノ・モンティによるラテン語教育が功を奏さず、これについてもドン・インノチェンツォが担ったとする(Azevedo, p.23.)。
[36] 創立は1666年に遡る。1770年にモーツァルトも会員に選ばれ、後にロッシーニも歌手として会員となる(1806年)。
[37] 弟のオルガン奏者ルイージ・マレルビ(Luigi Malerbi, 1776-1843)もロッシーニを教えた可能性がある。
[38] Tancredi Mantovani, Gioacchino Rossini a Lugo e il cembalo del suo maestro Malerbi, G. Federici, Pesaro, 1902. p.8.
[39] Paolo Fabbri, Alla scuola del Malerbi: altri autografi rossiniani, in Bollettino del centro rossiniano di studi, Anno 1980, n.1-3, Fondazione Rossini, Pesaro, 1981. pp.5-40. ロッシーニの自筆譜やマレルビの添削を含む手稿譜は次のとおり(曲名は一部略記。五つの手稿D.266, A.157, 165, 192, 479に《ラヴェンナのミサ曲》の原曲もしくは下書きが含まれる)。
〈Chirie〉A.49(ハ短調/ハ長調。テノール、男声合唱[2テノール、バス。以下同]、管弦楽)
〈Gloria in excelsis〉A.157(テノール、男声合唱、管弦楽)
〈Gloria in excelsis〉D.266(テノール、男声合唱、管弦楽)
〈Gloria a quattro voci〉A.165(ソプラノ、コントラルト、テノール、バス)
〈Quoniam〉A.192(バス、管弦楽)
〈Gloria a quattro voci〉A.164(ニ長調。ソプラノ、コントラルト、テノール、バス、管弦楽)
〈Laudamus〉A.353(ヘ長調。コントラルト、管弦楽)
〈Gratias Agimus〉A.371(変ホ長調。テノール、男声合唱、管弦楽)
〈Li trè Domine〉A.560(イ長調。2バス、管弦楽)
〈Qui tollis〉A.479(変ロ長調。テノール、管弦楽)
〈Qui tollis〉A.462(変ロ長調。テノール、管弦楽)
〈Quoniam〉A.198(変ロ長調。バス、管弦楽)
〈Crucifixus〉D.62(変ホ長調。ソプラノ、コントラルト、管弦楽)
〈Dixit〉A.467(ニ長調。2テノール、バス、管弦楽)
〈De torrente〉A.558(ハ長調。バス、管弦楽)
〈Gloria patri〉A.636(ハ長調。テノール、管弦楽)
〈Sicut erat〉A.88(ニ長調。2テノール、バス、管弦楽)
〈Magnificat〉A.633(イ長調。2テノール、バス、管弦楽)
[40] 現存する楽曲を配列してミサ曲や宗教作品に再構成することも可能で、ドイツ・ロッシーニ協会の委託を受けた研究者が《ルーゴのミサ(Messa di Lugo)》と《ルーゴの晩課(Vespro lughese)》に編纂し、1999年7月にヴィルトバートのロッシーニ音楽祭で復活演奏されている(録音:Bongiovanni GB2346/47-2)。
[41] Tancredi Mantovani, Gioacchino Rossini a Lugo, p.8.
[42] Azevedo, p.24. これは9歳頃ボローニャでの逸話として語られているが、本書では前註マントヴァーニに準拠してルーゴ時代のこととする。
[43] ヒラーへの述懐。Hiller, op.cit. p.81.
[44] Gioachino Rossini, Lettere e documenti:Volume IV, 5 gennaio 1831 - posto 28 dicembre 1835, a cura di Sergio Ragni, Fondazione Rossini, Pesaro, 2016. p.375. [N.1178]
[45] Ibid. pp.376-377.
[46] リゲッティ=ジョルジは『かつて歌手だった女の返書』1823年の中でロッシーニが7歳でテゼイの弟子となり、8歳でボローニャの教会でソプラノとして流暢に歌ったと記しているが(下記註49)、本書では1804年のボローニャ定住後の弟子入りとする。
[47] ジュゼッペは作品をフィオラヴァンティの《双子(I due gemelli)》とするが、他の作曲家(おそらくグリエルミ)の同題の歌劇と誤解したものと思われる。
[48] コルソ劇場の開場についてはBiblioteca Salaborsaのサイト「Cronologia di Bologna dal 1796 a oggi」の頁「Apertura del teatro del Corso」https://www.bibliotecasalaborsa.it/cronologia/bologna/1805/apertura_del_teatro_del_corso及び「Storia e memoria di Bologna」の「Teatri | Teatranti | Spettatori」https://www.storiaememoriadibologna.it/teatri-teatranti-spettatori-2185-eventoを参照されたい。
[49] Geltrude Righetti-Giorgi, Cenni di una donna già cantante sopra il maestro Rossini, in risposta a ciò che ne scrisse sulla state dell’anno 1822 il giornalista inglese in Parigi e fu riportato in una gazzetta di Milano dello stesso anno, Bologna, 1823. [in Rognoni, Gioacchino Rossini, Einaudi,Torino, 1977. pp.340-372, 346.]
[50] Hiller, Plaudereien mit Rossini, chap. 6.
[51] Radiciotti, Gioacchino Rossini, vol.I.,p.22.及びp.56.
[52] Claudio Sartori, Il Regio conservatorio di musica G. B. Martini di Bologna, Firenze, Le Monnier, 1942. pp.23-24
[53] 以下ロッシーニの出席記録の詳細は、Fabbri, Alla scuola del Malerbi. pp.26-27 (n.36)及びNicola Gallino, Lo《scuolaro》Rossini e la musica strumentale al liceo di Bologna: nuovi documenti. in Bollettino del Centro rossiniano di studi, Anno XXXIII, Fondazione G.Rossini, Pesaro, 1993. pp.5-55 (pp.27-28)を参照されたい。
[54] レチタティーヴォは《Ah no, mio ben, tacete》。ルーゴのFondo Malerbiの自筆譜は消失したが、1902年にフィレンツェのミニャーニ社からピアノ伴奏譜が出版(Firenze, Mignani, 1902)。この曲についてはPaolo Fabbri, I Rossini, una famiglia in arte, in Bollettino del Centro rossiniano di studi, Anno 1983, Fondazione Rossini, Pesaro, 1984. pp.146-148を参照されたい。
[55] ゴセット目録は《修道院のシンフォニア》の作曲を1806年頃としたが、現在は1808年とされる(ロッシーニ全集VI-I「Sinfonie giovanili」1998年の序文参照)。また、1806年頃の作としてハンブルクで出版された五つのホルン二重奏曲は偽作と判断した(日本ロッシーニ協会ホームページ掲載の拙稿「ロッシーニの器楽・管弦楽曲 作品解説(2)《五つのホルン二重奏曲》」を参照されたい)。
[56] 後にロッシーニは自分が「11歳で家長のような存在となり、稼いだお金はラヴェンナのトリオッシが短期間に増やしてくれた」と語った。フィリッポ・モルダーニの日記。1855年2月14日付Fabbri, Rossini nelle raccolte Piancastelli di Forlì, LIM, Lucca, 2001, Prefazione, p.XXXIX. ちなみにトリオッシはラヴェンナ生まれの実業家で、ロッシーニの母が1804年ラヴェンナの劇場に出演した際にジョアキーノと知り合い、トリオッシ家はラヴェンナの修道院の地所を購入して別荘としていた。
[57] ヒラーへの述懐。Hiller, op.cit, p.77. ロッシーニによればマッテーイは「ひどく口数の少ない」先生だったが、マッテーイの宗教音楽は「とてつもなく素晴らしい」ものだった(Ibid. p.79)。
[58] かつて初演場所がラヴェンナの聖ジョヴァンニ・バッティスタ教会(Chiesa di S. Giovanni Battista)とされたが、現在はポルトの聖マリーア教会と修正されている。
[59] 原曲もしくは下書きは前註39のルーゴ手稿に見出せる。フェルディナンド・スッラ(Ferdinando Sulla)校訂のクリティカル・エディションは、スッラの指揮で2024年8月11日ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルにて初演された。欠落する〈クイ・トリス〉の補完についてはこの初演プログラムのスッラによる解説を参照。そこでの楽曲区分は〈Chirie〉〈Gloria〉〈Laudamus〉〈Gratias - Domine Deus〉〈Qui tollis〉〈Quoniam〉〈Cum Sancto Spiritu〉〈Credo〉。
[60] 題名《Sinfonia del Conventello》は全集版VI / 1「Sinfonie giovanili」(Paolo Fabbri校訂、Fondazione Rossini, Pesaro, 1998)が採用したタイトル。詳細はその序文を参照されたい。
[61] 以下の詳細は日本ロッシーニ協会ホームページ掲載の拙稿「ロッシーニの器楽・管弦楽曲 作品解説(1)《六つの四重奏ソナタ》(1808年)改訂版」を参照されたい。
[62] 全集版IV / 4《Sei sonate a quattro》序文 p.XXXVI. 以下、その序文を基に記述する。
[63] 詳細は全集版VI / 1「Sinfonie giovanili」とその序文を参照されたい。
[64] ヒラーへの述懐。Hiller, op.cit. p.129.
[65] ロッシーニ全集VI / 1「Sinfonie giovanili」は初演日を「25日(または28日)」としたが(p.XXIV)、後に校訂者パオロ・ファッブリが28日に修正している。
[66] タイトルと内容はWorks of Giachino Rossini, vol.1. Chamber Music without piano, Bärenreiter, 2007に基づく。作曲年の推測も同版によるが、ラディチョッティは典拠を示さず1809年秋とする。自筆楽譜の存在は確認されず、典拠となる同時代の筆写譜のタイトルは《Variazioni di Clarinetto o Oboè di Gioacchino Rossini》で、1810年の作と考える研究者もいる。
[67] これに関するドキュメントはRossini, Lettere e documenti,vol.I. pp.12-15.参照。
[68] ロッシーニは正式な卒業や修了前にリチェーオ・フィラルモーニコでの学習をやめている。
[69] リチェーオ・フィラルモーニコにおける最後の記録は11月24日付の「ヴェネツィアに向けて出発」であるが、ヴェネツィアに行った証明となるドキュメントは無い。
[70] ゴセット目録でヴァイグル作曲とされるのが誤りであるのはヴァイグルの作品目録に同題のオペラが無く、1809年12月22日付『フェッラーラ新聞(ジョルナーレ・フェッラレーゼ)』に「オルランディ作曲」と報じられたことでも明らか。
参考文献